SSブログ
宗教的感覚 ブログトップ
前の30件 | -

1959. 人間 [宗教的感覚]

image.jpg
                             教皇フランシスコ

 昨年12月、仙台地裁の民事裁判で和解が成立しました。原告は70歳のクリスチャンの女性。24歳の時教会の司祭から性的暴行を受け、その後の抗議にも教会側から無視され続けたためPTSDになり、その損害賠償を求めたものです。教会側が330万円を支払う事で和解しました。この種の事件が後を絶たない事に心を痛めた教皇フランシスコは、昨年11月にこれまでの教会のあり方を一部自己批判しました。

 この報道を見た時、私は聖職者と呼ばれる人でも、数の中には善人の仮面をかぶった悪人が必ずいるものだと感じました。翌日、勤務校でシスターにこの考えを話したところ、彼女は、
「いえ、先生。どんな人でも弱いものです。」
と、諭されたのです。私は恥じ入りました。私は人間を「善い人」「悪い人」と固定的に分類したのですが、彼女は人間を「弱いもの」と可塑的に見ているのです。善にも悪にも簡単に変わりうる人間、この見方こそイエスのまなざしと感じました。

 教会を含めて、どんな組織も所詮は弱い人間が集まってできています。したがって、組織には人を間違いに陥らせないための予防的な規約と、万一陥った人が出た場合の更生に資する援助手続きが求められます。もちろん今回のように被害者がいる場合には、組織として誠実な対応が何より大事です。コンプライアンスが宗教団体にも必要な時代となりました。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : いつからだろう、先に希望を見い出せなくなったのは。  (しいたけ)

nice!(87)  コメント(0) 

1944. 山上の垂訓 [宗教的感覚]

Bloch-SermonOnTheMount.jpg
                     山上の垂訓 (Wikipediaより)

 新約聖書の中に山上の説教(垂訓)という一節があります。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、その人たちはなぐさめられる。…」

 幸せな人の例が8つ並んでますが、その「幸い」は、私達が普段感じる幸せとは違います。悲しむ人が幸せなはずがないからです。英訳を見てみました。
 "Blessed are the poor in spirit, for theirs is the Kingdom of Heaven. 
 Blessed are those who mourn, for they shall be comforted.
「心の貧しい人々」というのは、「心に不足を感じている人々」「自分の不完全さを自覚している人々」と解釈でき、そのような人々は他人と助け合う謙虚な生き方ができるので、死後は神に祝福されるという意味のようです。

 しかしニーチェはこれを奴隷道徳と批判しました。これは、「強くなりたい」という本来的な欲求が満たされない人々が、その怨恨(ルサンチマン)をキリスト教という倒錯した価値観にすり替えて自らを納得させているだけだ、と。授業で生徒達にどちらが好きかを聞いたところ、「ニーチェ」派が圧倒的でした。
「キリスト教の現状肯定的な考え方からは、政治を変えようとする意欲が湧いて来ない」
と言います。実に健全です。

 私はこのやり取りを通して、キリスト教や仏教の受け入れには、それにふさわしい人生のステージがあると感じました。高校時代は、むしろ「高望み」や「欲まみれ」で大いにもがくべき時期なんですよね。

** 高校生のコトバ **************************

狂歌 : 久々に 会う友人との 距離感を 思い出せずに どうする私  (A)

nice!(65)  コメント(2) 

1931. カルト教団 [宗教的感覚]

cult_family.png
                         カルト教団のイラスト (フリー画像より)

 カルト教団への向き合い方を取り上げたNHKの番組「宗教リテラシーをどう高めていくか」を見ました。その中で、宗教家の若松英輔氏が「神様はお金を要求しない」と断言していました。私も全く同感です。そしてここが、カルト教団をまともな宗教から区別する第一関門と感じます。

 私は21歳の時、東京都日野市の高幡不動尊で『大凶』というおみくじを引いたのをきっかけに、同寺のお不動様を勝手に私の守り神として尊崇しています。(No.105)  50年以上経ちましたが、一度も献金を迫られた事はありません。ただ29歳まで、そこで願う私の願い事がほぼ叶ってきていたため、お浄財を出さないと運が逃げていきそうで、あるいはバチが当たりそうで、ほぼ毎年お不動様にお賽銭を納めていました。一種の強迫観念に動かされていたとも言えそうです。

 しかし29歳の夏、絶対に合格しなければならない教員採用試験のお参りの時、「請願の成就は金額の多寡とは無関係」という声が聞こえた気がしたのです。その意味を「誠実さを示せ」と捉えた私は、その場で「一週間で小論文20個仕上げます」と誓願し、幸い合格できました。これ以後「神様にはお賽銭より誠意」という信念が私に根付き、これを生徒達にも伝えてきています。今の私のお浄財は、報恩感謝のお布施です。

 怪しい宗教勧誘には、「なぜ神様にお金が必要なんですか?」と尋ねてみましょう。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : いつからだろう、先に希望を見出せなくなったのは…。  (しいたけ)

nice!(79)  コメント(2) 

1920. 性(さが) [宗教的感覚]

Michelangelo,_Fall_and_Expulsion_from_Garden_of_Eden_00.jpg
                ミケランジェロの『楽園追放』(ウィキペディアより)

 キリスト教は、人は生まれながらに「原罪」という罪を持っていると教えますが、この原罪とは何なのでしょうか。旧約聖書の創世記に次のような話が載っています。

 神によって作られた最初の人間アダムは、神から
「エデンの園のどの木の実も食べてよいが、知識の木の実は食べてはならない」
と言われます。その後、女イブが作られ二人で暮らし始めました。ある時最も賢い動物の蛇がやって来て、
「知識の木の実を食べると神のように善悪を知る者となる」
と、二人にそれを食べるようそそのかしました。賢くなりたい二人はそれを食べてしまいました。そこにやって来た神は事情を察し、問いただします。アダムは、
「イブがよこしたので食べた」
と言い、イブは、
「蛇が騙したので食べた」
と答えました。神は怒って、蛇を地を這う姿に変えました。次に
「人は我々のように善悪を知る者となった」
と言って、二人をエデンの園から追放しました。

 ここで「原罪」として語られている人間の欠点は一体何でしょうか?
・神の言いつけに背いた事。
・二人とも自分の行動の責任を他人に転嫁した事。
・神のように賢くなろうとした事。

 私は神の言葉から、この三番目が相当すると考えます。創造主たる神と被造物の人間との間には絶対的な断絶があり、人間は神の意図を知る事は出来ません。しかし神になりたがる人間は、神の「善悪の基準」とは別の「善悪の基準」を日々作りつつあります。今後どう進むか分からないAI兵器、遺伝子操作、原子力発電、ChatGPT…。確かに「原罪」は人間の恐ろしい性(さが)と言えそうです。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 :  ネコはみな エサの時だけ 愛想よし  (さくまくん)

nice!(41)  コメント(2) 

1916.お盆 [宗教的感覚]

obon_okuribi_mukaebi.png
                     お盆の迎え火・送り火 (フリー画像より)     

 お盆の送り火を無事済ませました。日々の幸せに思いを馳せ、先祖に感謝するこの良き風習は何とも心地良いものです。しかし高校生の頃の私は、このような宗教的行事には全く目が向きませんでした。いるかいないか分からない「霊」のために時間を割く位なら、自分のために時間を使った方がいいと思っていたのです。

 世の中、「やった結果」と「やらなかった結果」の違いが分からないという事は結構あるものです。例えば私は23年間気功の稽古を続けていますが、大きな病気は顔面神経麻痺一回程度です。やってきたからこの程度で済んだのか、しなくても同様の結果になっていたかは、検証のしようがありません。

 同様に、ご先祖様の「霊」が守って下さるから今の幸せがあるのか、「霊」の存在を無視しても同じ状態になっていたかも検証できません。ただ72年生きてくると、「あんな私がこんな幸せに与れる奇跡」と思える場面が何度も出て来るのです。だから私は、ご先祖様の「霊」は確かに存在し、私達一家を守って下さっていると信じています。

 「神」や「霊」は迷信で全ては偶然の成り行きと言う無神論の人もいますが、それとて証明できません。私は、宗教とは一本橋についた丈夫な鉄の手すりのようなものと感じています。下がどんなに深い谷間でも、それがあれば安心して前に進めます。そして自分が信じる道をとことん信じ抜く事が、安心の人生につながると感じています。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 親と似ているところ、悪いところは探さなくても見つかるものだ。 (M.N.)

nice!(70)  コメント(0) 

1912. 問い [宗教的感覚]

pngtree-organic-white-poppy-seed-in-ceramic-bowl-white-poppy-seed-khas-khas-ceramic-photo-image_20376872.jpg
                              白いケシの実

 朝日新聞の磯村健太郎記者が、
「宗教とは、迷える人間に『答』よりむしろ『問い』を与えるものかもしれない」
と書いていました。これを読んで、私は法句経の注釈書『ダンマパダ・アッタカター』の一節を思い出しました。

 お釈迦様の所に、一人息子を亡くして悲しみに暮れるキサーゴータミーという母親がやって来ました。彼女が息子を生き返らせる方法を尋ねると、お釈迦様は「一人も死人が出た事のない家から白いケシの実をもらってくるように」と言いました。町中の家々を尋ねたキサーゴータミーは、「私は今まで、自分の子供だけが死んだと思っていたのに、町中を歩いてみると、死者の方が生きている人よりずっと多い。」と気づきました。死はどの家にもあり生きる者の逃れられない定めである事を悟った彼女は、出家しました。

 お釈迦様は、悲しむキサーゴータミーに慰めも励ましも与えませんでした。悲しみの渦中にある人にはどんな言葉も届かない事をご存じだからです。彼女には「問い」を与える事で、彼女自身が解決できる道を示しました。私達が悩んでいる時も、このキサーゴータミーと同じ状態です。そんな時は自分の悩みを整理し、新たに問い直す必要があります。

 作家ジェームズ=レッドフィールドの名言です。
「人生で難しいことは、答を得ることではありません。あなたの現在の問題を認識することです。何が問題か正しく分かりさえすれば、答は必ず出てきます。」

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 明日があると思うと、つらくなる時もある。  (S.K.)

nice!(78)  コメント(0) 

1868. 祈りと取引 [宗教的感覚]

480px-Jerusalem_Modell_BW_2.JPG
                         エルサレムの神殿の模型

 聖書の中に、愛を説くイエスが大暴れした話が載っています。イエスがエルサレムの神殿に行った時、庭でいけにえ用の牛や羊などを売っていた商人達を見ました。その時彼は、「出て行け」と叫んで机をひっくり返し、牛や羊も鞭で追い出しました。(ヨハネによる福音書2-13)

 この理由を、多くの解説書はイエスが聖なる神殿で利益を得る商人に怒ったとありますが、宗教学者の若松英輔氏は、さらにいけにえを供える事で神との「取引」を行う参拝者の姿勢を怒ったと論じています。祈りとは、神と取引をする事ではなく、神の声を聴く事だからだと。

 私はドキッとしました。昔検診で肝機能の数値が上がった時、
「もう酒を飲みませんから、数値を下げて下さい。」
と祈ったら数値が下がりました。その後も顔面神経麻痺などの大病の際にはこの取引を行い、コーヒーやコーラもやめてきたからです。考え込んでしまいました。

 私も、若松氏の解釈には基本的に賛成です。ただ祈り(取引)に2種類あるように感じます。いけにえを買い、自分のすべき努力の代わりにそれを差し出す祈りはいけません。金持ちと貧乏人の間に不平等が生じ、それを平等主義のイエスが認めるはずがありませんから。しかし自分自身をいけにえとして差し出す祈り、すなわち自分を高める誓いを立てて願う祈りは、許されていいのではないでしょうか。認識違いがあるかもしれませんが、若松氏のお話から感じた今の私の考えを書き留めてみました。

** 高校生のコトバ **************************

狂歌 : プリクラで 顔を小さく 見せたくて 悲しいけれど 一番後ろ (やえそに)

nice!(71)  コメント(0) 

1881. 霊媒師 [宗教的感覚]

41LLcgTlD-L._SY600_-2.jpg
                             トーマス・ジョン氏

 2018年7月にリリースされた「占いタクシー」をYouTubeで見ました。米国の霊媒師トーマス・ジョン氏がタクシー運転手に扮して、乗客に亡き人からのメッセージを伝えるという番組です。

 彼が霊媒師だと名乗ると、興味を示す乗客もいれば示さない乗客もいます。しかし乗客の許可を得て霊視した内容を伝えると、当人しか知らない事実が出て来て、ほとんどの人が涙を流して感激します。メッセージはポジティブで、悩んでいた人に安堵感と勇気を与えます。番組は、死者は存在が消えたわけではなく、いつもあなたのそばで応援しているという事を視聴者に伝えています。

 私は思わず引き込まれました。ただこの番組はタクシーを降りた乗客にインタビューするなど丁寧に編集されているので、おそらく「モニタリング」のような素人を巻き込んだ演出と感じます。ジョンは4歳の時に初めて心霊体験をしたそうです。

 私はこの動画の良さをブログに書こうと、1時間前に米国のYahooに入ってThomas Johnを検索してみました。すると何と、彼は2009年にニセのアパート広告で借家人から保証金を盗んだ前科があり、Facebookを使って依頼人の情報を事前に集めた事もあった(Wikipedia)とあります。一気に信頼性が揺らぎました。番組の全てが嘘とは思いませんが、私達に希望を与える良い番組と思っていただけに実に残念です。しかしこの動画がどうであれ、私は霊魂不滅を信じています。

〇「占いタクシー」第一話
https://www.youtube.com/watch?v=eGxsoMpOCE0

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 悩み事は、他人事と考えて気楽に処理した方がいい方向に向かう。 (M.N.)

nice!(78)  コメント(0) 

1861. 声を聴く [宗教的感覚]

FA_iaioVkAoXKQy.jpg
           ハビエル・ガラルダ神父 (上智大学ソフィア会事務局Twitterより)

 いつのものか、
「自立とは依存先を増やす事。自分の事は自分一人で決めない。」
というメモが出てきました。この言葉の意味は深いと感じます。確かに最後の決断は自分が下さなければなりませんが、自分の乏しい経験だけでは限界もあるからです。

 私は教員5年目に、農業高校の寮の舎監を命じられました。そこでの生徒達の生活は、大変厳しいものでした。全員夏は6時、冬は6時半起床で15分後には外で朝礼です。さらに牛や豚の世話を割り当てられた数人のグループは、その30分前に起きて畜舎に向かっていました。部屋には部屋長として3年生が1人いて、3人の下級生を指導します。下級生の不始末は、部屋長が責任を問われます。部屋で私物を充電すれば『盗電』となり、生徒指導の対象です。職員室での正座指導もよく行われていました。

 私はこんな軍隊のような生活を経験した事が無かったので、最初の内はどの程度厳しく指導すべきか判断に迷う事が多々ありました。先輩舎監の中には、「あなたの方がおかしくないですか?」と言いたくなる人もいました。したがって「まとも」と思える先輩を見つけて質問し、よく意見を聞いたものです。こうして何とか自分の基準を作りましたが、それでも今考えれば、元々の私の感覚の方が正しかったものが少なくありません。今私は、自分が耳を傾ける相手は、ハビエル・ガラルダ神父の語る「自分の心の浅い所の声ではなく、深い所の声」であると感じています。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : ドラエモン ホントにいたら つまんない   (S.M.)

nice!(86)  コメント(2) 

1827. 宗教心と宗教集団 [宗教的感覚]

img_fc3f52c1a7d52f549232d33028f4261c137425.jpg
                          小柴昌俊東京大学特別栄誉教授

 ノーベル賞を受賞した小柴昌俊教授と、ダライ・ラマ法王との対談を読みました。

 小柴教授が尋ねました。
「一神教の信者は『自分は絶対に正しくて、向こうは正しくない』と言い、その中間がない。この宗教観の相違が、戦争の原因ではないでしょうか?しかし仏教では、仏陀のための大戦争を聞いた事がない。21世紀は仏教のような心の広い宗教の出番ではないでしょうか?」

ダライ・ラマ法王は、答えました。
「いや、私はそうは思いません。キリストも立派だし、ムハンマドも立派です。それを信じている人が、教理を自分の集団に都合のいいように解釈している所に問題があるのです。」

 また別な会場での、
「現代科学からみたらナンセンス、こんな事は起こりえない。」
という質問には、
「仏典を変える用意があります」と
答えています。

 著者の村上和雄筑波大名誉教授は、現代はこのような「しなやさを持つ宗教」が必要であり、原理主義・選民主義の宗教はそぐわないと書いています。


 私も全く同感です。教団や教義の為に信者に犠牲を強いる宗教は似非宗教であり、詐欺集団です。彼らは大学構内などで『自己啓発』を語る場合があります。皆さん、進学先では十分気をつけて下さい。自分と神(Something Great)との対話は、常に1対1。個人の宗教心と宗教集団とは別物です。  (「神(サムシング・グレート)と見えない世界」(矢作直樹・村上和雄共著)より)

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 映画の主人公は、最初はやる気がない事が多い。  (ジャンキー)

nice!(81)  コメント(0) 

1798. 占い [宗教的感覚]

publicdomainq-0050339aei.jpg
              占い (フリー画像より)

 NHKの「令和“占い”最前線」という番組を見ました。今、ネット上の『占いサイト』による被害の相談が増えています。東京都だけで昨年は前年比8倍、被害額は一人平均68万円。相談者の7割以上が女性でその半数以上が50代以上です。

 ある女性は、「あなたには他の人にないオーラがある」と告げられ、ポイントを購入していく内に、150万円もつぎ込んでしまいました。一方、迷う自分を吹っ切るために占いを使う人の例も挙げられていました。タロット占いで凶が出たら今考えている選択肢を捨てるという生き方です。

 あるアパレルショップは、占いを経営に取り入れています。AIが組み込まれた大きな鏡を置き、客が自分の星座と気になる色をタッチすると、鏡は客のその日の運勢やラッキーカラー、ラッキーアイテムをそこに表示します。好評だそうです。

 占いは、昔中国で収穫を神に聞くものとして始まったので、本来宗教的なものです。私も神様と呼ばれる「大きな力」は信じています。しかし人生は自分と神様との協同作業で築くものと考えるので、事前に全てが決まっているかのような占いは信じません。したがって大変申し訳ないのですが、被害者の方々は自分で決断したくないので占いに頼ったように見えてしかたありません。

 神様からのメッセージは、占いのように明示的に伝えられるものではなく、こちらが感覚を研ぎ澄ませて自分の周囲の中に読み解いていくものと思っています。

** 高校生のコトバ ***************************

名言 :  「仲が良いから八つ当たりしてしまう」って、それはただの「いじめ」だよ。 (ぼんじり)

nice!(77)  コメント(0) 

1775. 迷い [宗教的感覚]

無題.jpg
        川嶋堅二牧師 (NHK「カルトって何だろう?」より)

 一人の生徒が聞いてきました。
「私、いけないと分かってるんですけど、どうしても他人にネガティブな感情を持ってしまうんです。どうすればいいですか?」
 その気持ち分かります。聖人君子でもない私達、嫌な人の何人かいて当たり前です。でもそれを口に出すか出さないかは、大きな差になりそうです。

 Eテレで、カルトと真の宗教の違いを、牧師や宗教学者、僧侶など立場の違う6人が話し合う番組を見ました。大変勉強になりました。特に、「真の宗教とは恐怖で信者を縛るものではなく、信者がその宗教から離れる自由も認めるもの」というカトリックの若松英輔氏の言葉が心に響きました。

 実はここで書きたいのはその内容ではなく、話し合ってる先生方のお顔なのです。どなたも大変美しいものでした。皆さん年配の方々ですが、目元口元が実に柔和です。以前、指名手配犯の顔写真を見た時、「どう見ても悪人面だなあ」と感じたのと正反対でした。常日頃の『思い』が、顔のしわや目つきに出て来るんですね。

 私自身は煩悩顔ですが、その生徒には参考までに私が日頃心がけている事を話しました。
「出て来る『思い』はしょうがないけど、その時すかさず『言わない、言わない』と打ち消すようにしてるんだ」と。

 弘法大師空海は、「迷ってはならない」とは言っていません。しっかり迷っていると、「悟りの方からやって来る」と語っています。人生、彼女のように迷う事が大事なんですね。

** 高校生のコトバ ***************************

名言 : 煩わしいと思うのは、それはあなたが自由なだけ。 (ね子)

nice!(73)  コメント(0) 

1770. 宗教的態度 [宗教的感覚]

s_JP20170410-007-585x390.jpg
                            禅僧 南直哉氏

 旧統一教会問題が国会で論戦になっていますが、正しい宗教とはどんなものなのでしょうか。22日の読売新聞に、福井県霊泉寺の南直哉住職が「信じても頼ってはダメ」という記事を書いていました。要約は以下の通りです。

**************
 高度経済成長期は日本社会の中に「成長」という一定の方向性があったが、長期停滞の時代に入ると混迷が深まり貧困や病いに苦しむ人々が増えた。その不安につけ込んだのがカルト教団。カネを出せば神様から相応のものが返ってくると考えるのは「取引」だが、この心理につけ込み「このままだと地獄に堕ちる」と高額のものを売りつける。人間の生と死の理由など分からないのに、そこに理由を与えて不安を拡大させた。

 信じる事は本来「賭け」である。宗教は物事を解決してくれると捉えない方がいい。苦しくても生きられるようにするのが宗教。宗教は杖になっても、おんぶはしてくれない。信仰には手間がかかる。キリスト教でも仏教でも、聖書なり経典なり原典を読む。腑に落ちる言葉だけを信じれば、間違いは少ない。さらに良き宗教者を探す事を勧めたい。生きる意味を考える時、宗教の与える示唆はとても大きい。切なく苦しい私にどのように生きるのか、どうするのかを問いかけていると思った方がいい。
**************

 「祈りとは神との対話」と語ったマザーテレサを思い出します。セザンヌが「見るために描く」と言ったように、「知るために祈る」というのが正しい宗教的態度なんでしょうね。

** 高校生のコトバ ***************************


名言 :  嫌いな人を遠ざける事は、いじめではなく自己防衛である。(Yuz)

nice!(67)  コメント(0) 

1755. 宗教について [宗教的感覚]

maxresdefault.jpg
            「山上の垂訓」を行うイエス

 生徒達と宗教について話す機会がありました。
私「人々が宗教に求めるものって何だろう?」
三人の手が挙がりました。
A「正しく生きられるようになること」
B「願い事が叶うこと」
C「安心して過ごせること」
 どれもよく言われるものですが、私は三番目の『安心の境地』と考えています。
Aも正確には「正しい事を安心して行える境地」であり、Bも「願いは叶うはずだと安心して活動に励める境地」なのではないでしょうか。

 浄土真宗の親鸞の悪人正機説は、自分の力では悪い事をやめられない悪人の方が、仏にすがる気持ちが一途なので、自力作善の善人より先に阿弥陀仏に救われるというものです。キリスト教のイエスも山上の垂訓で「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである」と言っています。心の貧しい者とは、自分の弱さ、足りなさを謙虚に認める人の事です。仏教とキリスト教、この二つは全く異なる宗教ですが、心の弱さに悩む人に安心感を与える点では全く同じです。安心こそが宗教の本質と感じます。

 今マスコミと世論から十字砲火の勢いで攻められている世界統一平和家庭連合ですが、こちらは信者の安心ではなく不安をあおって多額の献金を迫ると言われています。その通りなら、正しい宗教とは真逆です。一方、今世の中が魔女狩りのような雰囲気になっているのも気になります。感情論はしっかり抑えて、あくまで事実の積み重ねで彼らの活動の是非を論じていきましょう。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 時間を無駄にしたと後悔する時間が無駄である。 (おおさん)

nice!(67)  コメント(0) 

1723. なぜ神は助けないのか [宗教的感覚]

1755_Lisbon_earthquake.jpg
         死者約6万人を出した1755年のリスボン大震災

 上智大学グリーフケア研究所の西平直教授のZoomによる公開講座「なぜ神は助けないのか」を受講しました。まだ思考中との事でしたが、大変勉強になりました。

 1755年の大震災について、当時の教会の教説、
「完璧な世界は存在せず、神は悪を最小限にとどめようとしている。今回の害悪も神がいたからこの程度で済んだ。」
との苦しむ個人に冷たい姿勢に、ヴォルテールは
「もし神がいるなら、なぜ痛み苦しむ人がいるのか」
と憤りました。一方ルソーは、
「神は宇宙全体を見ており、いかなる不幸も全体の幸福に寄与する。神は全体の保存のため個人の幸福を多少犠牲にする事もある。」
と、全体調和論を説きました。

 この「痛む個人か全体の調和か」という対立の他に、内村鑑三や渋沢栄一は「神の裁き」という天罰論を、芥川龍之介は「震災は自然災害であって天罰ではない。」との天災論を、田山花袋は「天災は諦めるしかない」との諦念論を説きました。先生は、「怒る神、裁く神、赦す神、慰める神と神は多様な顔を持つ。共に痛み苦しむ神もあるはず。私達に求められるのは積極的な『諦め』(大阪人の『しゃあない』)だ。」と締めくくられました。

 私は、この演題を「なぜ神は人間を助けないのか」に置き換えると答えが見える気がします。万物を創造した神であれば、人間も亀も山も月も全てが全体の調和の中では対等です。だから「格別人間だけをえこひいきするはずがない」が答えです。厳しいでしょうか?

** 高校生のコトバ

川柳 : 降り出して 野球観戦 神頼み  (ふわふわ)

nice!(68)  コメント(0) 

1704. 不要不急 [宗教的感覚]

MN28535-1024x681.jpg
                    龍雲寺住職 細川晋輔氏

 「このコロナ禍で、不要不急の坐禅会はすべきでないという話が出て、私は本当に迷いました。長年続けて来た坐禅会を私の代で中止するのは何とも残念だったからです。さらに『不要不急』という言葉も、坐禅会が社会的に不要なものと評価されたようで落ち込みました。」

 臨済宗妙心寺派龍雲寺の住職細川晋輔氏が語っていました。氏は、まるで答えの出ない禅問答に苦しむようだったと言います。禅問答とは、公案という難問に坐禅を通して答えを見つけ出すものです。これは知識や経験では解明できず、知識や経験を捨てたところに答えが見えてくるのだそうです。

 そんなある日、細川氏の祖父の龍源寺住職松原泰道氏の言葉「生ききる」が思い浮かびました。泰道氏は、人間は遊ぶにせよ、食べるにせよ、あらゆる瞬間を生ききる事が大事とよく語られていたそうです。細川氏は、それなら「分からない」も積極的に受けとめそこを生ききろうと、インターネットで坐禅会を始めました。氏は「わからない」世の中に安らぎを与えるのが宗教だと言います。

 全く違うかもしれませんが、その感覚何となく分かります。私も「分からない」の価値は、「分からなくてもよい」といったものではなく「分からないからよい」のであり、それを考え続ける所に生きる意味があると思うのです。自分の寿命や恋人の本音など、分かってしまたらガッカリかもしれませんから。

〇龍雲寺のインターネット坐禅
https://www.youtube.com/channel/UCseGvO4BSIL2FCtxXGiRvpA/featured

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 友達の 隠す弁当 見たくなる  (B.T.)

nice!(69)  コメント(0) 

1703. ガンディー [宗教的感覚]

1280px-Marche_sel.jpg
     「塩の行進」をするマハトマ・ガンディー (ウィキペディアより)

 インド独立の父ガンディーは英国で法律を学んだ弁護士でしたが、後年英国の支配には徹底的に抵抗しました。有名な1930年の「塩の行進」は、英国の塩の専売への抗議のため、79人で380kmを23日かけて歩いたのです。行進は数千人に膨れ上がりました。

 彼は独自の抵抗方法を考え出しました。それは断食です。この習慣は仏教、イスラム教、ヒンドゥ教、原始キリスト教の全てにあるので、全国民に断食という形のストライキを呼びかけたのです。これがやがて非暴力・不服従という抵抗運動となり、インドを独立に導きました。

 著書『獄中からの手紙』の中で、彼はどんな宗教も不完全という独自の宗教観を説いています。
「ある人にとって真実と思われる事が、他の人にとって虚偽に見える事がしばしばあります。しかし真摯な努力を重ねていけば、一見異なる真実に見えるものが、結局は同じ樹に繁茂する見かけの違った無数の木の葉のようなものである事が分かるでしょう。神ご自身が、人それぞれに違ったお姿で現れるのではないでしょうか。私達は神は一つである事を知っています。そこで、『真理』が神の正しい呼称となるのです。『神は真理なり』と言うより、『真理は神なり』と言った方がより的確です。」

 ガンディーは、自己と真理の一体化をサティヤーグラハと呼び、その姿勢が世の中を変えると説いています。私も、正しく修行された宗教の行きつく先はどれも一つだろうと感じています。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 甲子園 見ている時は 監督気分 (PPP)

nice!(69)  コメント(0) 

1682. 挑戦 [宗教的感覚]

280px-Ichiro_Suzuki_on_May_112C_2011.jpg
                  イチロー選手

 イチロー選手の言葉です。
●「できなくてもしょうがない」は、終わってから思う事であって、途中にそれを思ったら、絶対に達成できません。
 こちらは相田みつを氏の言葉です。
●つまづいたっていいじゃないか 人間だもの。

 この二つは正反対のように見えますが、そうではありません。イチロー選手の方は、私達が何かに挑戦する時の、いわば事前の心構えです。一方相田氏の方は、挑戦したけどうまくいかなかった時、立ち直るための慰めの言葉です。一人の生徒が小テスト用紙の裏に、「眠ったっていいじゃない 人間だもの」と落書きしていましたが、この二つを混同すると大変です。

 人生を一つの挑戦的な活動とらえると、高校時代はイチロー型でいくべきです。私は倫理の授業でキリスト教を教える時、ここに気を使います。イエスも父なる神も、私達が回心したらいつでも救って下さる慈愛に満ちた方とされています。しかし、だからと言って「いつでも救ってもらえる」と手を抜かせてしまったら、生徒の大事な人生を台無しにしかねません。したがってここは「求める人には必ず応えて下さる」という言い方をしています。

 私は、神は私達の努力に応じて恵みを与えて下さり、人生は自分と神との協同作業で創っていくものと思っています。

 こちらは明治時代の哲学者三宅雪嶺氏の言葉です。
●できるかできないか分からぬ時は、できると思って努力せよ。


** 高校生のコトバ **************************

名言 : 親父がキレルと 家族はみんな知らん顔。  (サイくん)

nice!(68)  コメント(0) 

1658. 現実 [宗教的感覚]

22177000353.jpg
                    ニーチェ

 『何事も、それが今あるあり方とは違ったあり方であれと、思わぬ事。未来に対しても過去に対しても、永遠全体にわたって、決して。』(ニーチェ)

 無神論者のニーチェは言います、
「もともと神は存在しない。キリスト教道徳は弱者の強者に対す怨恨(ルサンチマン)から来る奴隷道徳だ。」
「前世も来世もなく、今が何度も繰り返される。だから今を充実させて生きよ。」と。

 これってニーチェ教という宗教のような気がしませんか。ニーチェもキリスト教も、「今ある現実を恨むな」と言ってる点は全く同じです。私もここが有意義な人生を生み出すポイントだと思っています。恨みや愚痴から生きるエネルギーは湧きません。自分で積極的に人生を創り出していく中で、希望や高揚感は生まれて来ます。

 時々、「全知全能の神が作り出したのなら、私の人生もすでに決められている」という宿命論を聞く事がありますが、私は全てを創造した神であれば、「希望」も人間に備えて下さっているはずと考えます。つまり、AかBか人生の岐路で迷った時、選ぶのは私の自由意志に任されていますが、どちらを選んでも神は望ましい結末を準備していると考えるのです。悪事を選んで刑務所に送られたら?それも結論から言えば、私のためになっているのです。今さらながら、人生は私と神様との協同作業で作られていると、強く感じています。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 夏休み 張り切るわりに 予定なし  (わたし)

nice!(65)  コメント(0) 

1645. 羽生選手とイエス [宗教的感覚]

f_15051878.jpg
        リンクを去る際、両手で氷に挨拶をする羽生結弦選手

 羽生結弦選手は、オリンピック本番直前の6分間の練習でも4回転半アクセルに2度挑戦し、失敗しました。日本中が奇跡的な成功を願った本番でしたが失敗でした。過去二度優勝している彼は、今回「4回転半跳んでの金メダル」という重い課題を宣言し、自分を追い込みました。進学、就職、恋人…、自分の目標達成に不要なものを全て遠ざけ、とことん自分だけを信じ抜いたのです。しかしダメでした。私には、彼の姿とイエスが重なって見えます。

 イエスも世俗的な事柄には一切かかわらず、神からのミッションに耳を傾け行動し続けました。彼が信じたのも、神と神の言葉を忠実に実行する自分自身でした。しかしそんな彼も、最期は十字架上で「神よ神よ、私をお見捨てになるのですか」と叫んでいます。(マルコ15-34) 二人とも信じたものに裏切られました。

 しかし私はそこに深い意味を感じます。もし羽生選手が期待通り今回も優勝していたら、そしてイエスが弾圧者をニッコリと赦しながら昇天していたら、どちらも完璧なスーパーマンとなり、私達一般人とは無縁な存在になります。私達は、無謀な課題でも一途に挑戦して挫折した羽生選手の純粋な生き方に人生のあるべき姿を見、私達と同じ惨めな人間だったイエスが約束通り三日後に復活した事実を通して、二千年も続く宗教的世界観を手に入れました。

 本当に大事な事は、同じ人間同士になって初めて伝わるという気がしてなりません。

** 高校生のコトバ **************************

川柳:  遊ぶ時 横目で少し 警戒し  (T)

nice!(69)  コメント(0) 

1619. イエスの洗礼 [宗教的感覚]

800px-Verrocchio_Leonardo_da_Vinci_-_Battesimo_di_Cristo.jpg
              イエスを洗礼するヨハネ

 今回は聖書の話です。洗礼とは、過去の自分を捨てて神と共に生きる事を宣誓する儀式ですが、「マタイによる福音書第3章」では、完全な人イエスも洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとあります。罪なきイエスがなぜ人々の前で洗礼を受けたのでしょうか?

************
 (要約)ヨハネがヨルダン川のほとりにやって来た時、多くの人々が洗礼を受けに彼の所に集まって来た。かたくなに律法を守ろうとするパリサイ派やサドカイ派の人々も来たが、ヨハネは形式のみを重んじる彼らに怒って言った。「そのままで神の祝福が受けられると思うな。悔い改めて行動せよ。私は水で洗礼するが、私の後にやってくる私より力がある方は聖霊と火でお前たちに洗礼を授ける。」その時、イエスがやって来た。ヨハネは「私はあなたを洗礼できません。」と言ったが、イエスは「今は洗礼をしてもらいたい。」と語り、ヨハネはそれに従った。イエスが水からあがると、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。」という天の声がした。
*************

 私はこう考えます。この日、神はヨハネの洗礼を通してイエスが神の子である事を公に知らしめました。さらに、イエスの「聖霊と火による洗礼」とは、彼の言葉が人々の悪い心を焼き捨て、聖霊の伝える神の意向に人々を一体化させる力を持っている事を明らかにしたのです。 と、色々解釈可能な所が聖書の魅力です。             

** 高校生のコトバ **************************

名言 :  頼ると その後しばらく機嫌が良くなるお父さん。  (とくになし)

nice!(69)  コメント(0) 

1613. A先生 [宗教的感覚]

h14_0203a01.jpg
                仙台大観音 (高さ100m)

 勤務校に、キリスト教の授業を受け持っている50代のA先生がいます。儀式の時はパイプオルガンを弾き、聖書の朗読や解説も行い、まるで当ミッションスクールの司祭のようです。宗教以外にも現代社会や政治経済の授業を持っており、一日中校内を忙しく動き回っています。

 そんな彼には、一人の追っかけの女生徒がいます。なぜか彼女はクラスの仲間とはうまく話ができず、休み時間になるとA先生の所にやって来て悩み事を相談します。部長職もこなすマルチタレントのA先生は、忙しい中でも嫌な顔一つせずじっと耳を傾けて優しく相談に乗ってあげています。

 先日、私がA先生に

「まるで先生、慈母観音のようですね。」
と言ったところ、先生は、
「いえいえ、彼女が観音様なんですよ。」
とおっしゃいました。

 生徒に傾聴するあの姿は、確かに生徒から出てくる言葉を観音様のものと見る姿勢から来ているように見えます。聞き役に徹し、自分の意見を押し付けません。道元禅師が、『悉有は仏性である』と説いたのを思い出しました。山川草木、人も動物もあらゆるものは仏が姿を変えたもの、という感覚です。これを私も最近少しずつですが実感し始めました。幼稚園児を見ていると心が洗われる思いがするからです。宗教的に突き抜けた人は、何を見ても仏様に出会えるんですね。彼は私の目標です。


** 高校生のコトバ **************************

名言 :  先が見えない時は、先を見ないのが一番。   (ツボ探し)

nice!(66)  コメント(2) 

1609. 本当の自由 [宗教的感覚]

IMG_2495-2_0000-3(1).jpg
        「心のささげもの」カード。この裏に誓いを書きます。     

 塩釜市に住むデンマーク人僧侶ミロ雲龍氏の「本当の自分 本当の自由」というインタビュー番組を聴きました。なぜここで毎日同じ暮らしを続けているのかを聞かれたミロ氏は答えました。

 「それが楽だからです。若い時は『その時好きな事をやるのが自由』と思っていたのですが、それは自分の欲の奴隷になっているだけと気づいたのです。自由とは、したい事から離れていく事。したい事があってもしないで済む事。それが本当の自由です。『したい事』とは一時の願い。『自分の人生をこう生きたい』は本当の自分が決めています。それができるよう、瞬間的に出てくる自分を捨てるのです。決まった時だけ食べれば食べ過ぎません。」

 「座禅会で、よく『どう一日暮らせばいいですか?』と聞かれます。人それぞれ違います。私は、『明日をどんな一日にしたいか、あなたにとって一番いいスケジュールを書きなさい。』と言います。それは本当の自分が決める事。『まあいいや、今日はしなくても。』という声が必ず私達の中に起こりますが、それに負ずに自分が本当にしたい事をやればいいのです。これが本当の自由です。」

 今日、学校で「心のささげもの」というカードが生徒と教員全員に配られました。一人一人がクリスマスまで、毎日必ずやり続けると決めた事を書くものです。初めての試みですが、私にはミロ雲龍氏の言葉と重なりとても新鮮でした。私は「夜は必ず12時までに床に就く」と書きました。

〇このインタビューを文字に起こしたものがネット上にありました。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/s-292.htm

** 高校生のコトバ **************************

どどいつ : 学校卒業 友達リセット いつの間にやら 友ゼロに  (ハムハー)

nice!(67)  コメント(0) 

1584. 驚き [宗教的感覚]

honthorst.jpg
                            イエスの誕生

 今日、新約聖書の中にイエス誕生の描写が全く違う箇所がある事を初めて知りました。

 一つは2ページ目の「マタイによる福音書第2章」。
 イエスがベツレヘムで生まれた時、新しいユダヤ人の王の誕生という噂を聞いたヘロデ王は東方から学者を呼び寄せ、彼らにその子を探すよう命じた。博士達は特別な星の動きでイエスの生誕場所に導かれた。彼らはイエスを拝んだが、夢で「ヘロデの所に帰るな」というお告げがあったので別路で自国に帰った。イエス一家にも「エジプトに逃げよ」というお告げがあり、彼らもそうした。怒ったヘロデ王は、そこの2歳以下の男児を皆殺しにした。

 もう一つは85ページの「ルカによる福音書第2章」。
 イエスがベツレヘムで生まれた時、野宿の羊飼い達の前に主のみ使いが現れ、「今日救い主がお生まれになった。あなた方は幼子が飼い葉おけの中で寝ているのを見るだろう。」と言い、「地上に平和があるように。」と神を賛美した。イエスを探し当てた羊飼い達は自分達が告げられた事を話したが、人々は不思議がった。羊飼い達は全てが自分達に話された通りだったので神をあがめ、賛美しながら帰っていった。

 前者の立会人は教養高い博士達、後者では身分の低い羊飼い達。幼子イエスの周辺は、前者が「緊張と残酷」なのに対して、後者は実に「のどか」。色々解釈が可能です。キリスト教が様々な教派に分かれている理由の一つを見た思いがしました。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 親孝行 言葉の裏に 下心  (ふるさとまつり)

画面の崩れを直したので作り直しました。niceを押して下さった皆様、消えてしまい申し訳ありません。

nice!(71)  コメント(0) 

1579. 放蕩息子のたとえ話 [宗教的感覚]

artartqe.jpg
                        レンブラントの放蕩息子の絵

 イエスの語る「放蕩息子のたとえ話」が何を言おうとしているのか、今倫理の授業で取り上げています。要約文を文末に置いたので読んでみて下さい。

 この話では,父は神,兄は律法を守る者,弟は自分の罪を自覚し悔い改めた者を表わしています。さんざん放蕩の限りを尽くし自分の分の財産を使い果たして戻ってきた弟に対して、父は出迎えて祝宴を開きました。それを知った兄は、真面目に父に仕えてきた自分は何もしてもらえなかったと怒りました。

 この話、教科書的には、「神は心から悔い改めた者を救う」となるのですが、難しいのは「心から悔い改めた者」とはどんな人かの説明です。私はこれを、「それまでの生き方が自分の歩むべき本来の生き方ではなかった事に気づき、大きな自己嫌悪に陥っている人」と捉えます。しかしこれを、まだそんなに誤った人生を歩んでいるとは思えない高校生に実感させるのは、なかなか難しい事です。

 むしろキリスト教の立場から言えば、この話のポイントは次の三つではないでしょうか。
①自己嫌悪に陥った時こそ、神の声を聴くチャンス。(弟から)
②神と毎日一緒にいる事に気づく事が幸せの源泉。(兄から)
③神は、罪人にも真面目な人にも自分から近づいてきて下さる。(父から)
 私もついついこのお兄ちゃんのような気持ちになりがちです。気をつけねば。

放蕩息子のたとえ話(要約) (ルカ福音書15-11-32)
 ある人が二人の息子に財産を分与したところ,弟は旅に出て放蕩のあげくに財産を使い果たした。困窮した彼は「私は天に対しても,お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にして下さい」と言おうと思って父の所に戻った。すると父は遠くから走り寄って来て喜んで彼を迎え、祝宴を始めた。真面目に父に仕えていた兄はそれを知って怒った。父は出てきて兄をなだめ、「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。弟はいなくなっていたのにみつかった。喜ぶのは当たり前ではないか。」と諭した。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 蚊に言いたい。血なら吸わせる、かゆくするな (A)

nice!(73)  コメント(6) 

1559. 祈り [宗教的感覚]

9.jpg
                                鈴木隆氏

 今日私は、「祈り」について新たな認識を得ました。郡山ザベリオ学園理事長の鈴木隆氏のカトリックについてのご講演を聴いていた時の事です。

 これまで私は、「祈り」は「願い」とは違うと思ってきました。むしろ、「祈り」とは「感謝」の気持ちを神に伝える事だと信じてきました。(No.1371) しかし今日、鈴木氏が語ってくれた「祈り」は、「神は私に何を望んでいるのかを受け取る事」というものでした。そうなんですよね、感謝にしても私のエゴの
範囲を出ていませんから。聴く姿勢が求められて当然です。

 そして、「祈りとは心と心を重ねてその思いを伝える事」ともおっしゃいました。この二つは、祈りという静かな対話の中では矛盾なく交わされるものと感じます。良いお話でした。

 その他、内容のいくつかをご紹介します。
〇「神」と「宗教」は別物。宗教が違うがために対立していた時代に、「へりくだる」事で神を知る営みを伝えたのがイエス。ユダヤ教徒のイエスは対立するサマリア人やローマ人とも交わったが、それゆえユダヤ教徒から嫌われ、十字架刑に処された。
〇私は聖書の全てが真実だとは思わないが、神がいる事は信じている。信じると「対立は和解へ」変わり、その後「うまくいく」からである。神の存在は証明できないので、この立場は一つの賭けである。
〇カトリックは無謬性を主張して人々と対立してきたが、1962~65年の第二バチカン公会議で、他の宗教も認める多様性尊重の姿勢を打ち出した。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 先生に「宿題終わったか?」と聞かれると思い、あせっていたら、「宿題写したか?」と聞かれ図星で困った。
(ジャンボー)

nice!(70)  コメント(0) 

1536. 祈り [宗教的感覚]

E3839EE382B6E383BCE38386E383ACE382B5.jpg
                            マザー=テレサ

 放送朝礼でシスターが、「貧しく生きる事は、神の働きをよりよく知る事につながる」と話されました。それはとても新鮮に響きました。私達は、自分の生活に満足している時、なかなか人の意見に耳を傾けられません。まして居るかどうか分からない神の声ともなればなおさらです。しかし貧しさや病気、不便、不幸など、苦しい状況に陥ると思わず祈りたくなります。自分の思い通りにならない時こそが、神の働きを感じるチャンスです。私も検診再検など何度かの辛い時期を通して、今は神(大いなる力)の存在を信じられるようになりました。

 昔、こんな話を聞いた事があります。ある時、マザー=テレサは一人の金持ちから別荘の寄付を受けました。彼女は早速修道院にするための改修作業に入りました。シャンデリア類や絵画ははずし、きれいな壁紙やじゅうたんも全てはがしてむくのコンクリートにしました。各部屋には簡素なベッドだけを入れたのです。神に祈る場にふさわしい形にするためでした。祈りとは神との対話であり、そこに必要なものは静謐だけだからです。

 最後の職場がミッションスクールという「導き」に、私は感謝しています。色々勉強させてもらっています。大変満足しているのですが、今朝の話から「満足してるだけならもはや後退している」事も学びました。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 :  レッテルは あらゆるものに 貼られてる  (花丸公路)

nice!(80)  コメント(2) 

1533. ツバメ [宗教的感覚]

20210702_090729-2.jpg
                                玄関の上のツバメの巣

 今朝、母をショートステイ=センターに連れて行った時、玄関の軒下にツバメの巣を見つけました。巣の中には白いくちばしのヒナが5~6羽入っていました。どのヒナも「おりこうさん」で、黙って親ツバメの帰りを待っています。

 突然ヒナ達がピーピーと大声で鳴き出したその時、親鳥が戻って来て巣の上方でホバーリングし、口移しで一匹のヒナに餌を与え、あっという間に飛び去っていきました。その静と動の転換があまりにもダイナミックだったので、私は次の回を写真に収めようと車からスマホを持って来て巣の下で待ちました。しかし数分待っても戻る気配が無く、施設の出入りの邪魔になっては申し訳ないので、巣だけ撮って帰りました。久しぶりにツバメ親子の温かい交流を目の当たりにし、しばし感動に浸ってました。

 その時ふと、キリスト教の「10人の乙女たちのたとえ」にこれが似てると感じました。
 「私はツバメのヒナ、そして親鳥は神様。きちんと待っていれば、突然神様は恵みを持ってやって来る。それがいつかは分からない。恵みはきちんと待ってる人には公平に与えられる。」

 どのヒナも同じ大きさに成長していました。休みなく飛び続けるツバメの両親がどうやってヒナ達に公平に餌を分配するのかなど、ヒナの私には分からない事ばかりです。しかし私の安らぐ寝床は、私が生まれる前にすでに親ツバメによって作られていました。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 名案は 事が終わって 思いつく
  (T.K.)

nice!(72)  コメント(0) 

1521. マリアの夫ヨセフ [宗教的感覚]

Saint_Joseph_with_the_Infant_Jesus_by_Guido_Reni2C_c_1635.jpg
                       ナザレのヨセフ(グイド・レーニ作)

 職員の聖書講読会が開かれました。今回は、新約聖書の「マタイによる福音書 第一章」を読みました。一行目からしばらくの間は、アブラハムからヨセフまで42代の人名が延々と書かれています。昔、私が聖書を読もうとして最初に挫折したのがここでした。人名が全く分からないからです。

 しかしここの聖書講読会で、旧約聖書の人名をチャート図にしてみたら、アダムやノアなど聞き覚えのある名前が出てきて、時代感覚が掴めるようになりました。そして今回、その続きのアブラハムからヨセフまでを図示してみました。アダムとヨセフが一本に繋がりましたが、何と最後に「系図はイエスと全然関係ない」事に気づいてしまいました。

 というのも、ヨセフとマリアが一緒になる前に、マリアはすでにイエスを宿していたからです。ヨセフはマリアと離縁しようと決心しましたが、夢の中で天使が「心配しなくてよい。マリアは神の子を宿した。」と伝えたので、マリアを妻として迎えました。

 そこでシスターに、「なぜイエスと関係のない系図が聖書に載っているのか」を尋ねたところ、彼女は、「ユダヤ教的には石打の刑にされても仕方がない状況にあったマリアを、『正しいユダヤ教徒』だったヨセフは、新たな信仰心で妻として受け入れた。その正しさを系図が補完している。」と話されました。考えれば考える程、ヨセフってすごい人ですね。

** 高校生のコトバ **************************

狂歌 : 子の思い 親が知らぬは 当たり前 どうせ異なる 親と子だから
(A.O.)

nice!(75)  コメント(2) 

1488. 慰め [宗教的感覚]

20210403_220155-2.jpg
                        64年前に幼稚園の卒園式で頂いた新約聖書

 クリスチャンでもない私ですが、次の聖書の言葉に出逢った時は、目からうろこが落ちました。

 『神はあらゆる苦難に際して私達を慰めて下さるので、私達も神から頂くこの慰めによって、苦難の中にある人々を慰める事ができます。』(コリントの信徒への手紙Ⅱ1-4)

  慰められた経験が人を慰める力になると読みました。私は人生で3回どん底に落ちています。1回目は16歳の冬で、一酸化炭素中毒から回復したら、数学のような抽象概念を扱う科目が理解出来なくなっていた時。2回目は27歳以下という年齢制限のある宮城県の教員採用試験を27歳で受験して失敗した時。3回目は41歳の検診で異常が見つかり、肝炎の種類を特定するよう宣告された時です。

 いずれも目の前が真っ暗になりましたが、脳の機能不全は大学在学中に突然回復し、教員採用試験は三年後に規制緩和となり合格できました。肝機能は精密検査で「異常なし」でした。自分の力では何ともし難いこれらの状況から、私は大きな力よって救われてきました。したがって、昨年顔面神経麻痺に襲われた時も、私は「これも神様からのメッセージ」と受け止める事が出来ました。この感覚が「慰められている」感覚だと感じたのです。したがって、この実体験を伝える事が悩んでいる人への私の務めと信じ、今は生徒の相談等にこれらを利用しています。

** 高校生のコトバ **************************
名言 : 「聞いても怒らないでね」で始まる友達の話は、絶対に怒らずにはいられない。   (P.N.トリ)


nice!(63)  コメント(2) 
前の30件 | - 宗教的感覚 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。