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1956. 岐路 [思い出話]

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                       アップライトピアノ (フリー画像より)

 私の人生には
「しとけばよかった」
と悔やんだ事が沢山ありましたが、この歳になるとそれらの多くは
「しなくてよかった」
に変わっています。

 例えば、私は高校時代調律師になりたいと思っていました。しかし大学で教員もいいなあと思い直し、難しい教採試験を受け続けるため大学院にも行きました。浪人したり落第したりしていた私は、気づけば26歳になっていました。宮城県の受験年齢は27歳まで。焦った私はいざ用にヤマハの調律師学校の募集要項を取り寄せました。するとこちらの受験年齢は25歳までで、私は受験できないのです。退路を断たれて受けた最後の教採試験も結局ダメでした。

 無謀な事に挑戦せず、早めに安全な調律師学校に入っていれば親孝行にもなったのにと悔やまれました。失意の中で入社した私塾でした。しかし3年目に年齢制限が緩和された宮城県の試験を再度受験したところ、何と一般教養問題は塾で教えている内容から多数出題されていたのです。お陰で合格できました。何が幸いするか分からないものです。

 もし調律師になっていれば、もしかするとこのコロナ禍の三年間は苦しい生活を余儀なくされたかもしれません。どちらが幸せかは比較できませんが、人生どんな道を選んでも最後は「うまくいく」と私は信じています。高校生の皆さん、迷った時は是非積極的な方を選んで進んでみて下さい。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 相手の素敵な所を伸ばせる人は、自分の良い所も伸ばせる人。 (H)

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1927. 変な喫茶店 [思い出話]

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                         健全な喫茶店 (フリー画像より)

 1969年、私は浪人生でしたが、浪人反戦連絡協議会というおままごとみたいな反戦活動のサークルに入っていました。集まる場所は予備校内ではできないので、喫茶店です。当時、市内に喫茶店は山ほどあって、今では信じられないような変な店もありました。今回は、60年代当時のアクの強い喫茶店をご紹介します。

 街の中央にあった「ロイヤル」という純喫茶はディスクジョッキーがいて、定期的にリクエストカードを募っていました。客の中には別席の異性に曲をプレゼントする猛者もいましたが、そこから恋愛に発展した話は聞いていません。ジョッキーは私の友人のお姉さんでした。

 「アド」というジャズ喫茶は、重い扉を開けると腹の底まで響く大音量のジャズが飛び出てきて、中は奥が見えない程のタバコの煙で満ちていました。革マル派の闘士が常駐しており、怖いもの見たさでいつも繁盛していました。

 「ブルーノート」というモダンジャズの店はなぜか地下に作られてあり、どこかドブの臭いがしていました。薄暗い絨毯の上で、物憂げな常連客がゴロゴロと長居していました。

 クラッシック専門の「無伴奏」も一部のファンには人気の店でしたが、ここは客同士が話をすると「お話はおやめ下さい」とウェイターに叱られました。坐禅堂みたいにみんな黙ってコーヒーをすすりながらバッハを聴いていました。こんな所に出入りしていた私はなんと親不孝者だったかと、今は反省する事しきりです。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 休み明け みんなの表情 まだ休み (ゆらん)

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1899. コンプレックス [思い出話]

 
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                    心理学者 河合隼雄氏 (ウィキペディアより)

 キャッチボールの下手な生徒が試合で球を受けそこね、「送球悪いぞー」などと怒鳴っているのを見ると、彼が捕球コンプレックスを必死に隠そうとしているのを感じてしまいます。むしろその事実を隠さず、「俺、ボール捕るのが下手なので今回は応援に回るから」と言った方が人間的に大きく見えます。身体的欠陥や技能の低さと当人の人格は全く別物なのですが、人はともするとそれを混同して友人との間に垣根を築いてしまいます。

 心理学者の河合隼雄氏は、コンプレックスについて次のように書いています。
 「劣等感は、何か劣っている事そのものに原因があるのではなく、その劣っている事が自己を傷つけるものと感じ、それを他人の目から隠そうとする逃避的な意識から生まれる。」
まさに見抜いていると感じます。

 30年ほど前、勤務校に髪の毛の全くない女子生徒が入学してきました。はじめ私達は放射線治療中かと気を遣いましたが、実は生まれつきの体質でした。ボランティア活動で校外に出る事もありましたが、彼女はかつらをかぶる事もせず三年間堂々とその姿で学校生活を送りました。確かに彼女は目立っていました。しかし本人は無毛という事実が自分自身を傷つけるとは全く思っていないようでした。ご両親の教育のすばらしさを感じたものです。あたりの視線を全く気にせずごくごく普通に生活する彼女は、他の生徒達や私達教員に立派な生き方の一つのモデルを示してくれました。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 二個欲しいものは、一個しか売ってない。   (名無し)

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1895. 音楽 [思い出話]

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                       探検ファクトリー (NHKのサイトより)

 漫才中川家の滑稽な二人と吉本新喜劇座長のすっちーの三人が様々な工場を見学するNHKの『探検ファクトリー』で、先日三人はレコード製造工場を訪問しました。50年前に八代亜紀や小林旭がお礼に来た時の写真や、ここで作った『およげたい焼きくん』のレコードが爆発的な売れ行きを示したといった昭和の話が出てきて、懐かしく感じました。

 私が小学生の時、音楽好きの父が当時としては高かったビクターのステレオ電蓄を購入し、レコードをかけて世界の行進曲をよく私達に聞かせてくれました。当時はEP盤(45回転)とLP盤(33.3回転)のレコードが主流でしたが、SP盤という古いレコードやソノシートというビニール製の簡易レコードも出回っていました。私が最初にねだって買ってもらったのがペレスプラード楽団の『闘牛士のマンボ』でした。何回も繰り返し聴いたものです。

 レコードのおかげで私は音楽に親しむようになり、中学校ではブラスバンド部に入りました。上京しても、かぐや姫の『神田川』やばんばんの『いちご白書をもう一度』のような学生生活を送り、小坂恭子の『想いでまくら』や八代亜紀の『花水仙』で失恋の痛みを癒し、中島みゆきの『時代』を聴いて結婚しました。レコードのおかげで私は音楽大好き人間になっていました。音楽はタイムマシンのようで、聴けばいつでもあの時代に戻ります。レコードを発明したエジソンには感謝でいっぱいです。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 一番自分を傷つけている時、それは無理な自分を演じた時。 (D.M.)

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1876. ベビーフード [思い出話]

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                            色々なベビーフード

 祖父は40年程前、自宅で寝たきりになって亡くなりました。介護する祖母は調理法から変えねばならず、大変でした。祖父がまだ元気だった頃、学生の私は時々訪問しては庭の手入れをして小遣いをもらっていました。祖父が倒れ、私は祖父母両方が苦労する姿を見て、
「祖父に、ベビーフードを食べてもらおう!」
と思いつきました。スーパーで缶詰になった「おひたし」や「青森りんご」などを買い、持っていくと、祖父は
「どうもありがとう」
と喜んでくれました。私も、我ながら名案と満足しました。

 ところが後日訪問すると、缶詰が沢山残っています。
「おじいさんが、おいしくないって…」
と祖母。その時私は、
食品の味わい方を知らない赤ちゃんだから、ベビーフードを食べられるのだ」
と、気づきました。歯ごたえや食感、のど越しなど、食の心地良さを知ってしまった私達は、ほうれん草の裏ごしの「おひたし」や薄味ジャムのような「青森りんご」は、食べられなくなっているんですね。以後「おいしさを味わえる内にしっかり味わう」が、私の人生観になりました。

 これはさらに、「目の見える内、耳の聞こえる内、学習できる内、そして人の世話ができる内に、それら出来る事をしっかり『味わう』事が、後悔しない人生に繋がる」へと進みました。これは体力や記憶力が衰えてきた今、いよいよ実感となってきています。

** 高校生のコトバ **************************

狂歌 : 宿題は 暑っつい日には 進まない 涼しい日には 昼寝に限る (きり丸)

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1870. 花粉症 [思い出話]

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                           つらい花粉症 (フリー画像より)

 15年程前、私の勤務校では花粉症の先生方が『花粉ツァー』と銘打った団体旅行を行っていました。県北のある病院なのですが、皆さんよく効くと大絶賛です。半信半疑の私でしたが、数年後夜も眠れない鼻づまりと目のかゆみに襲われ、こわごわ行ってみました。着いた病院の待合室は花粉症の患者さんで満員です。診察室に入ると、先生は事務的に、「この薬はとても効くので、辛くなったら一日何回飲んでも大丈夫。注射もできます。」と言います。お尻に一本注射を打ってもらい、薬を60日分もらって家路につきました。すると、その車中で鼻詰まりは治るは、目のかゆみは消えるは、まるで別世界のような清々しい気分になりました。その後、しばらく薬をもらいに通いました。

 ところがある日、その特効薬『ベタセレミン』が「原則禁忌」とあるのをネットで見てしまいました。緑内障や糖尿病、結核といった重大な副作用の方が、効能よりはるかに多く載っています。すぐ飲むのをやめました。

 先日、花粉症治療のために行った市内の耳鼻咽喉科の先生も、
「あそこは医師会でも問題になっている病院で、法律に触れなければ何をしてもいいっていうもんじゃないですよ。」
とご立腹でした。私には、
「今回『強いお薬』を出しておきますから、安心して下さい。」
とおっしゃるのでホッとしたのですが、結局この薬も効きませんでした。今は眼科医に処方された目薬で、腫れた目をだましだまし生活しています。歳をとるほど花粉症はどんどんきつくなるような気がします。

** 高校生のコトバ **************************

狂歌 : 授業中 「なぜ寝てたんだ」 答えれば 「言い訳するな」 理不尽だ  (ガルスの弟子)

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1828. カルチャーショック [思い出話]

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                   憧れて入学した高校でしたが…(フリー画像より)

 私が高校に入学して一番驚いたのは、集会時の先輩方の態度でした。4月早々に開かれた新入生歓迎集会。暗幕が貼られ、中から太鼓が「ドーン、ドーン、…」とゆっくり打ち鳴らされている体育館からは、時折「ウォーッ」という雄たけびが聞こえます。入り口で一列で数人ずつ中に入るよう指示された新入生は、誰もが真っ青です。

 いよいよ私の番になりました。入ると先輩達は二列で蛇のようにくねくねと通路を作っており、私達はその間を進みます。途中では「襟章曲がってるッ!」、「返事は大きな声で!」などの指導のほか、「何部に入る予定や?」、「姉ちゃんいるか?」など色々な質問が飛んできました。中には知り合いの先輩がいて、途中からショートカットしてもらう人もいました。最後に応援団長のエールをもらって解散です。これは大きなカルチャーショックでした。

 また全校集会でも、たとえ校長先生のお話の最中でも、「よーし!」というヤジがあちこちから入ります。はじめはこれを異様に感じた私達でしたが、やがてそんなヤジを普通に飛ばす連中も出てきました。

 良いヤジは、話し手に燃料を注ぐ良い効果がありますが、口汚ないヤジは話を聞こえにくくするばかりか、話し手の意欲を削ぎかねません。やはり、話を聞く時は黙って聞くのが社会人のマナーです。ちなみに新任式をヤジと騒音の中で進める悪しき母校でしたが、離任式だけは静粛な雰囲気で先生方をお送りしていました。

** 高校生のコトバ **************************


名言 : 勉強会という名の「ガールズトーク」。  (N.K)

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1795. しつけ [思い出話]

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               ジャン・ピアジェ博士 (Wikipediaより)

 私が小学1年生の時、母は2歳下の妹を連れて学校給食の手伝いをしていました。誰の面倒もよくみる優しい母でしたが、一度だけ烈火のごとく私を叱った事があります。友人のY君が家に遊びに来た時の事でした。

 Y君は負けん気の強い子でしたが、その日の私は自宅という事もあり、Y君には強気で接していました。やがて口喧嘩が始まり、私は「お父ちゃんもいないくせにッ!」と叫びました。母子家庭の彼は黙り、喧嘩は収まりました。

 Y君が帰宅すると、母は私を正座させ、「Y君がどんな気持ちになったか分かるかッ!」と涙を流しながら大声で怒鳴ったのです。そして、父親がいないだけでも辛いY君に、私はそれをえぐるような冷たい言葉をかけた事、Y君は反論できない悔しさを味わった事などをこんこんと諭し、翌日の謝罪を私に誓わせました。翌朝、私は教室でY君に前日の無礼を詫びました。

 あの母の激高が無ければ、私の自己中心的な言動は増長していたに違いありません。スイスの心理学者ピアジェは、2~7歳の子供は自己中心的な視点から抜け出せず、その後12歳頃までに様々な経験を通して他者の視点を手に入れるという『脱中心化理論』を唱えました。母のあの激高は私の貴重な経験となり、今も感謝しています。

 最近、友達のような親子関係がよく話題になります。それ自体は良いと思いますが、しつけに関してはあくまでも親がその第一責任者である事を忘れては
ならないと考えます。

** 高校生のコトバ ***************************

狂歌 :  三年間 コロナ自粛で ままならず 思い出一部 欠けて戻らず  (こはく)

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1673. 大物 [思い出話]

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                  高倉健氏

 芸能レポーターの井上公造氏が、故勝新太郎氏が一晩で2~3百万円使う大物だったと語っていました。聞いていて高倉健氏の大物伝説を思い出しました。高倉氏も、気に入った人には自分の高級腕時計を惜し気もなく与えた大物だったそうです。私も若い頃は彼のファンで、銀幕の中のあの鋭いまなざしにはシビレタものでした。しかし高倉健氏には、モノをあげる事で有名になって欲しくはありません。

 私が教員になりたての頃、これまた管理職になりたての教頭先生が赴任してきました。彼は全教員の足のサイズをメモし、運動靴をプレゼントしました。また、気に入った教員にはスポーツイベントのチケットや自分が締めていたネクタイをくれてやったりしていました。それを喜ぶ教員もいましたが、私はすこぶる下品に見えて嫌でした。

 私が大物と感じた先生はゲーテを好んだ哲学者のような方で、どんな質問にもさらりと名答を出す方でした。授業は、何も見ないで三色チョークできれいに板書します。政経も世界史も全く同じパターンで進めていました。会うとつい何か質問したくなるような魅力あふれる方でした。

 高倉氏は口下手ゆえに、感謝の気持ちをプレゼントという形で表現したのだと思います。しかしもらった方は黙っていられないでしょうから、噂は広まってしまったんですね。寡黙な人生というのも、気遣いの面では結構大変そうです。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 理由はない、好きだからこそ信じたい。(R.H.)

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1657. 流行 [思い出話]

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                  ミカサバッグ

 テレビを見ていたら、「アレッ」と感じました。あれだけ茶髪、金髪の多かった芸能人の髪の毛が黒くなっているのです。コマーシャルのキャストも黒髪が多くなってます。もちろんカズレーザー氏のようなコテコテの金髪もいますが、あのりゅうちぇる氏も黒くしました。流行なのでしょうか。高校生の服装の変化を思い出します。

 私が教員になった1981年当時のツッパリファッションは、男子はダボダボのボンタンズボンに細い白ベルト、リーゼント頭に踵をつぶした革靴でした。女子はパーマ頭にひざ下までのロングスカート、薄い鞄を抱えて登校していました。

 90年代に入ると、男女ともだらしないファッションが流行りました。男子はワイシャツの裾をズボンから出し、地面に裾を擦らせて歩く腰パン姿。女子は裾の長い大き目のカーディガンをはおり、ミニスカートにルーズソックス。この頃からコギャルと呼ばれる黒めの化粧が街では流行り出しました。この時期、オーストラリアの高校でも男子には全く同じ指導で教員は手を焼いていたそうです。

 2000年代に入ると、女子の間で他校のバッグを持つのが流行り出し、同時にミカサバッグというナイロン製の袋も大流行しました。今考えれば、服装指導は教員と生徒のいたちごっこでした。でも、こんなやり取りの中で人間同士のコミュニケーションも深まっていったのでしょう。ちなみに、私の中学時代、白ソックスは不良の象徴で即指導の対象でした。可笑しいですよね。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 寝る子は育つ 信じたオレが バカだった  (とっつぁん)

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1653. 呪文 [思い出話]

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               教員採用試験のようす

 高校生の皆さん、生き方を楽にするおまじないの言葉をお教えしますね。それは「意味があるはず。」です。

 思った通りに生きられる人なんかいません。思った通りにならなかった時、深呼吸して「ならなかった事には意味があるはず。」と呪文を唱えてみてください。しばらくすると、必ずその意味が見えてきますから。

 私は、大学在学中から宮城県の教員採用試験を5回失敗し続けました。応募年齢を過ぎた時には、真っ暗な気持ちになりました。都内の私塾に採用してもらい、小中学生のクラスを万遍なく持たされ、夏期課外、冬期講習とほとんど休みなしに働かされました。

 やがて三年目に宮城県の年齢制限が緩和されたので受験したところ、今度は合格できました。今考えてみると、その塾の指導のための勉強が功を奏して、一般教養科目がほぼ全て解答できたのです。さらに新任で行った高校はかなり荒れていましたが、それも「こんな苦労ができる幸せ」とポジティブに受け止める事ができました。うまくいかなかったからこその恵みでした。

 そんな経験を何度もしてきたので、今は望みがかなわない事も一つの立派なメッセージと感じられるようになりました。だから、あの呪文を唱える時は、「うまくいかなかったから、きっとこの先面白くなるぞ」と思ってみて下さい。その通りになりますから。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 自分に自信のない人ほど、ブランドで身を包む。 (K.H.)

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1951. あさま山荘事件 [思い出話]

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                        あさま山荘事件

 あさま山荘事件から50年が経ちました。1970年に日米安保条約が自動継続され、この無力感の中で若者の一部が先鋭化し、連合赤軍という過激派集団を作りました。彼らは武装闘争を唱え、71年から群馬県の山岳アジトで軍事訓練を行いましたが、その間に仲間12人を「総括」と称するリンチで殺しています。

 72年、彼らの内の5人が警察に追われて長野県軽井沢のあさま山荘に立てこもり、管理人の妻を人質にとって警察と10日間対峙しました。銃撃戦で警察官ら3人が犠牲となり、27人が重軽傷を負っています。全員逮捕され、首謀者の坂口弘が死刑、他のメンバーも全員実刑となりました。

 この事件は異例の長期にわたる人質事件となり、警察突入の2月28日のテレビ視聴率は歴代トップの89.7%を記録しています。私も、クレーンにぶら下げられた大きな鉄球が、ドカーン、ドカーンと山荘の壁を壊していく音を今も鮮明に覚えています。

 「民衆のための革命」を唱える彼ら自身が、「自分の利益」を目的化した武力闘争に転化していったのです。これは、人々の救済を唱えながら、内部では殺人を合理化していったオウム集団とそっくりです。過激派もカルト集団も、純粋な心を揺さぶる耳あたりの良い言葉で若い学生を誘います。目的がどれほど理想的でも、勧誘する人の視線に「違和感」を感じたら、一旦その場から遠ざかる事が必要です。

** 高校生の゜コトバ **************************

狂歌 : 人々の 真面目に生きる 姿見て ふと考えてみる 己の生活  (M.M.)

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1631. 怖い話 [思い出話]

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                              コテージ (フリー画像より)

 昨夜見た夢です。
 一軒のコテージを借り、我が家一族で旅行に出かけました。着いて間もなく、私が留守番役でみんなは買い物に出かけました。しばらくしたら孫でしょうか、私の部屋のふすまがそーっと開き始めたのです。私もそっと小タンスでそこをふさぎ、窓のカーテンの陰に隠れてみました。その時振り返って外を見ると、遠くから外出した家族全員が楽しそうに帰って来るのが見えました。ゾッとして目が覚めました。

 これが私のどんな心理状態を表すのか分かりませんが、対象が見えない事が大きな恐怖を引き起こす事を実感しました。

 似たような「事件」が16年前、当時の勤務校で起こりました。私は女子テニス部の顧問でした。部員が少なかったので、夏休みに近くの高校の女子テニス部と合同で合宿を組みました。本校合宿所を私達だけで借り切り、広い和室を生徒達にあてがいました。ある夜、廊下を挟んだ私達顧問室に「キャー、キャー」と騒ぐ尋常じゃない声がしました。入り口のふすまを開けると、真っ暗な部屋の一角に両校の生徒達が固まってガタガタ震えています。「今そのふすまが開いて、横向きに長い髪を垂らした首が出て、また閉まった」と。廊下が明るいため顔は見えなかったそうです。合宿所は全て内カギがかけられており、その時私達顧問二人は人の気配を感じていません。その合宿所には昔から『学校の怪談』のような話はあったのですが、真相はいまだに謎です。怖い話ですよね。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 部活中 今日の夕飯 考える  (ドナルドマウス)

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1599. 思い出 [思い出話]

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                         鉄道の旅 (フリー画像より)


 高校2年生の春休みの事です。大船渡までの一人旅を計画しました。宿泊先は現地にある同級生の祖母の家。そこで彼と「三泊四日の学習合宿」をするという名目で私は両親の許可を取り、準備を始めました。甘納豆、チョコレート、柿ピー等私の好きなおやつをたっぷり買い求め、当日は大船渡までの座席指定券まで買って万全の態勢で客車に乗り込みました。

 出発と同時にお菓子を食べ始めたところ、やがて喉が乾き出しました。列車が花泉駅に停車した時、思い切ってホームの水のみ場に走ってごくごくと水を飲みました。乾ききった喉にそれは実に美味しく感じました。ところがその間に列車は動き出していたのです。手元には何もありません。頭が真っ白になりました。

 大急ぎで駅員さんに事情を話したところ、彼は素早く電話を入れてくれました。その列車の車掌さんが私の広げたお菓子や服等一式をまとめて先の一ノ関駅に降ろしてくれたのです。安心した私は2時間後の列車で一ノ関駅に行き、頭をかきかき礼を述べて荷物を受け取りました。

 乗り換えを重ねて大船渡駅に着いた時は6時間以上遅れていました。駅で待ちくたびれた友人は、当日がエイプリールフールの日だったので「だまされた」とカンカンに怒って一旦帰宅していました。色々な方にご迷惑をかけた大失敗でした。ほろ苦くも懐かしい思い出として語れるのも、皆さんのおかげと今はただただ感謝するばかりです。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 満員バスで空いた席に座るのは、少し勇気がいる。 (ばば)

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1560. 思い出 [思い出話]

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                          特急「ひばり」

 学生時代、私が帰省する時は上野から仙台まで特急「ひばり」を利用していました。当時としては3時間58分という「短い」乗車時間は大きな魅力でした。今は1時間半ですが。

 ある年の暮れ、列車は超満員となり、客室内に入れない私は出入り口近くの通路に立っていました。本も読めず、退屈極まりない時間でした。向かい側に立っていた外国人男性も、私同様に退屈そうに見えました。そこで私は英語版のキモ試しと覚悟を決め、ドキドキしながら話しかけてみました。
「May I talk to you?」
「Sure!」
 トラック英語学習(No.168) が通じて、私は天にも昇る気持ちになりました。彼は建築家志望のレバノン人で私と同い年、日本の建物を見ようと全国を回っているのだそうです。たどたどしい英語でやり取りしている内に仙台駅に着きました。泊る所は決めていないと言うので実家に電話を入れ、我が家に泊ってもらう事にしました。当時レバノンは国際的な紛争地域だったので、私の両親はかなり不安だったと後に語っていました。

 その後しばらく国内での親交は続き、彼は私の結婚式にも出席してくれました。しかし帰国後レバノン内戦が激しくなり、彼とは連絡が取れなくなってしまいました。彼の語った言葉だけが鮮明に残っています。
「お金は旅行に使います。思い出は盗まれる心配がありませんから。」

 以来私達夫婦も、許される範囲で彼の精神を受け継いでいます。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 友達と ちょっとさみしい 夏祭り (JAM)

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1549. 寿司 [思い出話]

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                                 回転寿司


 今、回転寿司チェーンが大賑わいです。おそらく誰にとっても、寿司は手軽な食べ物となったのではないでしょうか。幸せな時代になりました。
 
 私が小学生の頃、寿司と言えば年に一・二回、大切な客人を迎えた時に出前を注文する程度の高級な食事でした。したがって店に入って注文して食べるなど、想像もできない贅沢でした。
 
 そんな「高嶺の花」も、1970年代に入ると、学生でも手が届く価格に降りてきました。大学生だった私の住んでいたアパートの近くに、5つのカウンター席を持つ小さな寿司屋がありました。アルバイトの金が入った日などは、友人を誘って夜中に食べに行ったものです。
 
 店に入って椅子に座ると、人のよさそうな親方は緩めに絞った台拭きでカウンターを一拭きし、ガリを一つかみずつ置きながら「何にしましょ?」と聞いてきます。熱いおしぼりとお茶が出る頃に「いつもの『並み』下さい。」と注文し、ささやかな会食が始まりました。この程度の贅沢でも、私達は大満足でした。
 
 数年程たったある日、突然そこが閉店しました。街の噂では、親方はB型肝炎で亡くなったそうです。我ら真っ青になりました。その後私は宮城県に戻りましたが、肝炎にもならず50年間無事に生きています。素手で握っていた時代の寿司は、案外リスキーな食べ物と知りました。
 
** 高校生のコトバ **************************
 
川柳 :  違います 高校英語と 英会話  (ロン)

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1529. 富士山清掃活動 [思い出話]

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            富士山清掃活動に参加した一行

 今からちょうど10年前の7月、コスモ石油は「クリーン・キャンペーン・in Mt.FUJI」という富士山の清掃活動のフィランソロピー(慈善活動)を行っていました。樹海に不法投棄されたゴミの清掃支援活動です。それを見た息子が、「お父さん一緒に参加しない?」と声をかけてきました。交通費は自腹ですが、面白そうなので二つ返事でOKしました。すると当選し、宮城県からは、我ら親子と一組の姉妹、FM仙台の名護アナウンサーの5人が参加しました。

 樹海とは言っても国道からさほど離れていない場所に、あること、あること!コンクリート片や屋根瓦、古タイヤ、ビン缶類等、不法に投棄されたゴミが層をなして小山を作っています。アルピニストの野口健さんの指導の下、200人位で作業をしました。誰もが一番気を遣ったのが医療廃棄物の注射針で、全員軍手をはめて慎重にすすめました。汗だくになりながらも、半日かけて10アール程度をほどほどきれいにしました。

 それでも全体のゴミの量からすれば大海の一滴程度のものなので、ユネスコが富士山を世界自然遺産にしない理由がはっきり解りました。しかし2年後の2013年、富士山は何と世界文化遺産に登録されました。モラルが高いと言われる日本人ですが、人様の見ていない所では低い人も多い事を知り、最近話題のSDGs(持続可能な開発目標)の習慣づけが必要だと感じました。

** 高校生のコトバ **********

川柳 : 後でやる この一言が 命取り  (C.A.)

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1497. 他人の飯 [思い出話]

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                       こんな感じの弁当箱でした。(ネットより)                         

 「他人の飯を食う」とは、「他人の間で揉まれて社会経験を積む」という意味ですが、私も大学時代そんな経験をさせてもらいました。それが土方の飯場です。

 飯場では、早朝4時頃からおかみさんが我々労働者の朝食と弁当を作ってくれていました。しかし、なにせ20~30人はいたのでその味噌汁の味付けの大雑把な事。日によって塩分濃度が微妙に違い、入りたての頃はおいしいとは感じませんでした。

 朝食は、大皿に盛られた佃煮や沢庵(たくあん)で白御飯をかき込みます。昼食は、深さ7~8㎝の木こり弁当でした。蓋を開けると斜めに大きな塩鮭の切り身が寝かせてあり、ご飯の中には梅干し、端には沢庵3枚と塩昆布が置かれてありました。質素な中身ですが、汗を大量にかいた体には本当においしく、一粒残さず食べました。夕食には天ぷらやおいなりさん、トンカツなど我々が喜ぶ献立も用意してくれましたが、長期滞在者には栄養不足だったようで、マイクロバスで現場に向かう途中、毎回多くの仲間が薬局でリポビタンDなどの栄養剤を飲んでいました。

 私は夏休みだけの短期労働者でしたが、食事の美味(うま)さは流した汗の量に比例する事を知りました。エピクロスの語る「一杯の水と一切れのパンがあれば、幸せにおいてゼウスに負けない」が私の生き方の理想ですが、そのためにも体を動す事が大事と今気づきました。

** 高校生のコトバ **************************

狂歌 : 去る時に 一度後ろを 振り返る 追いかけてきて と願いながら  (Dan)

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1474. アレルギー [思い出話]

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                   花粉症の元凶、スギ花粉

 

 小学生の頃、私はアレルギー体質で、夏になると手足に小児ストロフルスという虫刺されのような赤い発疹が何カ所か出てきました。まさに蚊に刺された直後のようなかゆさで、いったん掻き始めるとその部分の皮が破れるまで掻き続けていました。特に辛かったのは足の裏でした。

 小児科や皮膚科などで診察をしてもらいましたが、処置法はないという事でその場しのぎの塗り薬を与えられるだけでした。これが一生続くかと思うと、暗い気持ちになったものです。ところが20歳の夏を最後に、発疹は現れなくなりました。体質が変わったのです。嬉しい驚きでした。

 私の父も卵アレルギーで、兵隊の頃は食事で大変苦労したと言っていました。私が小さい頃は卵の入った食べ物は口にしませんでしたが50歳代に入るとマヨネーズが平気になり徐々に卵の入った食事も食べられるようになりました。という訳で皆さん、今アレルギーで悩んでいても、体はある日突然劇的に変化します。悲観しないで下さい。

 と言いつつも、私45歳の頃、原付きバイクで出勤していたら突然涙が止まらなくなりました。「何だ、何だ?」と思っていたら、これが花粉症の始まりでした。こちらも突然やって来ます。したがって先ほどの言葉を正確に言えば、「悲観せず、しかし油断せずにいきましょう」となります。いずれにしても、明日どう変わるか分からないのが「今の私」なんですね。

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狂歌 : 夜遅く 電話の相手は 好きな人 聞き耳建てる 祖母と両親 (あいうえお)

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1465. 柔軟性 [思い出話]

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                                         新聞奨学生募集のポスター

 森喜朗元会長や安倍元総理のように、人の意見に耳を貸せずに自滅していく“大物”が目に付きます。かく言う私もそうですが、年をとると人の意見が耳に入りにくくなります。でも同年代の中には、人の意見に耳を傾け、そこに次の話の糸口を持って来る柔軟な思考のできる人も数多くいます。その違いは、若い時の生活の仕方にある気がしてなりません。

 学生時代、私は学生16人が生活するアパートで暮らしていました。はじめは不安な気持ちで挨拶し合いましたが徐々に親交を深め、やがて一緒に食事を作ったりしました。一足先に住んでいた先輩達からは、地域の有益な情報や余った品物をもらったり、麻雀でカモられたりと、色々可愛がってもらいました。

 その伝統は私達から次の世代に代々引き継がれましたが、みんな謙虚に人の話を聞いて自分の生き方を修正していました。親や先生がいない分、自分の失敗は全て自己責任。誰もが『それなり』に節度を保って生活していました。当時のメンバーは、今でも思考は柔軟で性格は温厚です。ただ、あまり大物もいませんが…。

 人格形成期にこんな環境で生活できた私は幸せでした。今は一人住まいのマンションに住む学生が大半です。確かに快適そうですが、皆さんには学生寮でも新聞配達奨学生でも、一度は同世代やその前後の世代の人達と寝食を共にする生活をお薦めします。

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川柳 :  台風は みんなの味方 休校GO!   (三所避け)

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1449. 友人選び [思い出話]

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          昔の学生運動の過激な活動家たち  (ネットより)        
 三年生に質問されました。
「大学に入ったら、広く浅くの人間関係の方がいいですか?」
「もちろん、人づきあいの始まりは広く浅くだけど、気をつけてね。キャンパスには過激派やカルトの人もニコニコ手招きしてるから。」
「どうすれば分かりますか?」

 私の大学時代、4月のキャンパスではサークル勧誘のため多くの先輩達が話しかけてきました。ポスターが貼られ、中庭では応援団が模範演武を見せ、教室では数人の学生達が哲学談義に花を咲かせていました。私は人形劇にひかれて児童文化研究会というサークルに入部しましたが、実はこのサークル、数年前までは武闘派の学生活動家の集まりでした。血の気の多い一人の先輩を除けば、仲間は子供好きの純朴な学生ばかりでした。私は運が良かったと思います。その後応援団は暴力事件で謹慎処分を受け、哲学談議の一青年は殺人事件に絡む過激派学生として逮捕されました。

 入学したてで人物鑑定を冷静にするのは簡単ではありませんが、話相手の視線はしっかり見て下さい。過激派やカルトの人は、話をしていると時々両目の視点が私の顔を突き抜けてはるか後方に向かいがちになります。偉そうな事は言えない私ですが、卒業後の人生目標をしっかり持ち、その実現の為に必要な事から先に手を付けていくような学生生活を送っていけば、友人選びも大きな失敗はないと思います。皆さんの人生に実り多き事を祈ってます。

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川柳 : コロナっち 青春返せ 時返せ
  (〇)

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1439. クリスマス [思い出話]

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                                     夢を運ぶクリスマスプレゼント

 近所に住む息子が、「風邪気味で病院に行くので、子供達を見てくれないか」と電話をしてきました。もちろん我々はOKです。間もなく二人の孫が、サンタさんからのプレゼントを抱えてやってきました。小1の兄はトミーの「ベイブレーダー」という昔のベーゴマに派手な装飾を施したようなもの、保育所の妹はプリキュアの衣装箱。二人とも大声で興奮気味にそれらを解説をしてくれました。

 そんな姿から、クリスマスの持つ意義を改めて感じました。子供にプレゼントを与える日が存在する事で、子供は一年に一回楽しい夢見る夜が得られ、翌朝親はそんな子供の喜ぶ姿を楽しめます。どちらにとっても幸せです。我が家の長女は、小学校6年生まで「サンタさん」を信じていました。しかし次女は小4の頃から半信半疑で、当時私達が「サンタさんには何をお願いするの?」と聞いても絶対に言いませんでした。そして末っ子の長男は、高一になっても「サンタさんって絶対いるよねー、お父さん」ととぼけていました。

 クリスマスとは「キリストのミサ」という意味です。12月25日はイエスの誕生を祝う日ですが、イエスの誕生日ではないそうです。それがいつかは誰も分かりません。冬至の時期には様々な異教徒のお祭りが重なるので、4世紀頃の教会がそこにキリスト教を合わせたという説が有力です。

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名言 : 自分を大切にしないと、大事な人を傷つけてしまう。 (アンモナイト)

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1437. 性格診断テスト [思い出話]

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       性格診断テストの一例 (私の受けたものではありません)


 ある県の教員採用試験で私が受けた「性格診断テスト」です。30名程の受験生は、全て放送に従うよう指示されました。

 「ポン、ポン、ポン、ポーン。只今よりテストを始めます。1ページを開き、並んだ二つの語句の内から好きな方にマルをつけて下さい。」
 見ると、「山-海」「緑-赤」「犬-猫」といったペアが並んでいます。すぐ書き終わりました。
 「では、2ページから始めて下さい。時間は45分です。始め!」
 開くと、すごい量の語句が並んでいました。やがて
「ポン、ポン、ポン、ポーン。15分経過しました。20ページの辺りまで進んでいる事と思います。遅れている方はお急ぎ下さい。」
 ドキッ、まだ14ページです。全速力に切り替えました。30分が過ぎ、
「皆さんは40ページの辺りを…」
とスピーカーが煽ります。遅れが取り戻せません。そして終了のベルが鳴りました。数ページが残りました。

 「お疲れ様でした。未記入カ所のある方は、最後まで記入してから提出して下さい。」
周りを見ると、皆一様に「焦って損した」という顔をしています。考える時間を与えずに書かせるテクニックだったんですね。

 でも皆さん、似た試験が出されても決してのんびり取り組まないで下さい。これは、あくまでも私の経験した多くの教員採用試験の中の一つですから。心理テストのテクニックにも色々あるものだと思いました。

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川柳 : 楽しみだ 大雪予報 休校日 (T.T.)

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1436. スキー教室 [思い出話]

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         久しぶりの大雪にはしゃぐ勤務校の小学生達

 私の通っていた高校は、山形蔵王で2泊3日のスキー教室を開いていました。1年目、ド素人の私と友人K君は初心者クラスで直滑降・斜滑降・ボーゲンなど基本的な滑り方を必死に覚えました。2年目は中級者クラスに入る事が出来、ゆっくり景色も眺める余裕も持てました。ゲレンデは、カラフルなスキーウェアと大きめのゴーグルに身を固めた美男美女で一杯です。顔が見えない世界では、人々は互いに夢を振りまいています。

 ふと気づくと、すぐそばで仙台の某女子高のスキー教室も開かれていました。斜面にハの字に二列に並んで、斜滑降を練習しています。すっかり美男子気取りの私達、顔が見えないのをいい事に、そのど真ん中を直滑降で突っ切る事にしました。私が先頭になって滑り降りると、そこは踏み固められていない新雪状態でした。「そこの〇高生、どけろ!」との男性のどなり声に、後ろを振り向くとK君が女子高生達の真ん中で突っ伏していました。

 さらに転んだ時に眼鏡を落としたらしく、四つん這いで探しています。あわてて私も駆けつけたのですが、眼鏡を見つけた後は二人ですごすごとスキーをかついで降りてきました。顔は見えなくても学校ゼッケンをつけていたので、全てばれていました。ゲレンデは人を惑わせます。気をつけて下さい。今思い出しても恥ずかしい青春の一コマです。

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名言 : 忘れたい事は、忘れようとするよりも、忙しい自分をつくればいつの間にか忘れている。 (むむ)

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1415. 名言 その2 [思い出話]

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                                三宅雪嶺氏

「できると思えばできる。できぬと思えばできぬ。」(三宅雪嶺)

 前回の続きになりますが、Iさん用の名言を探していたらこれが目に止まりました。単純な名言ですが、これが持つ力は大変に大きなものがあります。私は高校1年生の時にこれを本の中に見つけ、机の前に貼っておきました。

 これまでのブログで書いてきた通り、私は浪人も留年もしているのであまり説得力がないように思えるかもしれませんが、これは真実です。ではなぜ浪人や落第したのかと問われれば、「その時本気で『できる』と思わなかったから」の一言に尽きます。

 しかしその後の人生の中で、これが真実だと実感する出来事が何度もありました。例えば駅の改札口をくぐったらホームで発車のベルが鳴っているような場合、本気で「乗れる!」と思って走ってみて下さい。その電車に乗り込む老人が手こずっていたりして、ピョンと飛び乗れますから。「そんなに上手くいくもんじゃない」と内心思った人は、おそらく乗れない事でしょう。「できぬ」と思ってしまっているからです。

 不思議な話ですが、私が最終的な住家を探していた時も、「見つからないはずはない」と思っていました。すると希望通りの中古物件が見つかったのです。その後震災で半壊にはなりましたが、タイミングよく退職金で建て替えられました。(No.751) 

 明日は、この大好きな名言を板書します。

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どどいつ : 進路相談 本音を言えば ずっとこのまま 高・校・生  (つん)

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1411. 幸せ [思い出話]

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               秋の日に映える長老湖

 昨日、妻と蔵王山麓の「長老湖」に紅葉を見に行きました。残念ながら盛りは過ぎていましたが、久しぶりに命の洗濯をさせてもらいました。すぐ近くに宿をとったところ、そこのレストランで36年ぶりの教え子に声をかけられました。高校時代はかなり「やんちゃ」だった彼も54歳、今はそこの代表を務めています。

 青白い30歳の私は、初任として行った高校で彼らにたっぷり鍛えられました。ほぼ毎日、何らかの「課題解決学習」の宿題を出されていたようなものです。叱ったり、褒めたり、なだめたり…、この時期にその後の教員生活に必要なスキルの9割を学んだ気がします。

 しかしこの悩み続けた経験が、後に宝となりました。一年生の時に私とあちこちでぶつかった彼らも、二年、三年と進級するにつれて徐々に気持ちが通じるようになり、私達のクラスは合唱祭、運動会、球技大会と全ての学校行事で三年間優勝しました。図に乗った三年目、クラス旗は生意気にも黒地に金文字の「強すぎちゃってゴメンね!」でした。卒業を前にしたホームルームでは、皆で大粒の涙を流しました。卒業後も彼らは私の引っ越しに駆けつけてくれるなど温かい支援をしてくれました。

 今回別れ際に、彼は私達夫婦に「7年経つと咲きますから」と、月下美人の苗を一つくれました。あらためて教員になれた幸せに感謝した小旅行でした。

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名言 : 夏休み 始まる前が 一番楽しい。 (ん)

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1369. 楽な仕事 [思い出話]

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                         今も時々見かける交通量調査

  高校生の中に、「楽して稼げる仕事はないですか」と聞いてくる人がいます。その時は、こんな私の経験談を話しています。

 大学生の頃、夏休みにアパートの仲間達と「楽して稼げるバイト」探しをしました。できるだけ体を動かさずにすむ仕事を探していたら、交通量調査という仕事が見つかりました。期間は短いのですが、二人でペアになり、24時間交差点でトラックや乗用車などの通行量を調べる仕事です。

 二人がどんなルールで交代しようと自由です。ただし両隣の交差点でも測量しているので、いい加減な仕事はできません。一日目は、首都高速への入り口の横でした。全ての車がブーッとふかして登るので鼻の穴が真っ黒になり、頭も痛くなりました。翌日は別の場所になりホッとしました。

 終了後、アパートでこれを話したら、もっと楽な仕事を見つけた友人がいたのです。彼はマヨネーズ工場で、一日中座りっ放しでベルトコンベアー上の卵の選別をする仕事でした。エアコンの効いた快適な環境で、しかも一カ月以上の長期契約。彼のドヤ顔が忘れられません。

 ところが二、三週間経った頃、その彼がゲンナリして言いました。 「職場じゃ時間の経つのが遅くて、遅くて。連日卵ばかり見続けていると、気が狂いそうになってくる。」

 人間、体や頭を動かさないと、仕事への意欲も生まれない事を知りました。

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名言 : 二人の時は名前で呼ぶのは照れるけど、みんなの前では名前で呼びたい。(ピアス)


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1351. ナポリタンのコツ [思い出話]

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                                      ナポリタン=スパゲッティ

 50年前、仙台市に「サントス」という喫茶店がありました。金もないのに、私達はそこをたまり場にして、「浪人反戦連絡協議会」という新左翼っぽい会議を開いていました。(今考えると、まるで「おままごと」でしたが。)私達の大好物は、そこのナポリタン=スパゲッティでした。味が良かったからです。

 一年後、私は東京の大学生となりアルバイト生活を始めました。ある時、レストランに採用されました。時給80円のボーイからのスタートです。(No.128) やがてコック見習いを許されました。ここではゆっくり説明してくれる人はいません。それぞれが自分の仕事に夢中なので、私は皿洗いをしながら横目で先輩の段取りや調理法を盗み見し、コツを覚えました。

 例えば皿の拭き方。洗い終えた皿は8枚を両手で一気につかみ、大きな白い布巾を上からかぶせて親指側と小指側の両面を拭きます。その後、親指側の一枚を小指側に回し、渇いた面同士を接触させながらこれを繰り返すと、あっという間に全て拭き上がります。こんなテクニックは今でも忘れません。

 今の私は「サントス」を超える味のナポリタンを作る自信があります。おいしさの秘訣は、ケチャップで味つけした後で牛乳を少量入れる点です。これで味にまろやかさと深みが出ます。これに粉チーズをかければ最高です。皆さんも、どうぞお試しあれ。

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名言 : 悩み事の相談は、結局納得する答を言ってくれる友達が見つかるまで永遠に続く。 (K.S.)

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1339. 新聞記事 [思い出話]

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                                  百円色々

 40年程前に、新聞に載った話です。東京都内のJR東日本の複数の駅で、切符の自動販売機から大量の偽コインが見つかりました。各駅は見回りを増やすなど自衛策を講じましたが、犯人はなかなか尻尾を出しません。そんなある日、ひょんな事からこの犯人は逮捕されました。

 その駅では、自販機の外側と内側の両方で厳戒態勢を敷いていました。内側とは駅員が働いているオフィスです。駅員達は仕事をしながらチャリン、チャリンという自販機内のコインの音に耳を澄ませていました。すると一人の駅員がその騒音の中にコトンという鈍い音を聞いたのです。大急ぎで鉄道公安官に無線を入れました。公安官がその自販機前にいた男の持ち物を検査すると、ズボンのポケットから大量の偽コインが見つかりました。現行犯逮捕です。

 男は、百円玉で石膏に大量の雌型を作り、そこにハンダを流し込んで偽コインを量産していました。それらを駅の自販機に入れて払い戻しレバーを回し、本物の百円玉と交換していたのです。

 この記事を読んで皆さんは何を感じますか? 私は、この駅員の鋭い聴覚にも確かに驚きましたが、むしろこんな偽コイン作りのノウハウや駅の不正防止のシステムを細かく伝える新聞記事の書き方に疑問を覚えました。マスコミのような情報産業がどこまで情報をオープンにすべきか、これは本当に難しい問題だと思います。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 来て欲しくない時に来る客ほど長居する。 (I.T.)

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1329. 付け句 [思い出話]

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                  松尾芭蕉

 「秋深き 隣はなにを する人ぞ」(芭蕉)
このような「五・七・五」に自由に「七・七」を付け加え、味のある連句に仕上げる「付け句」という遊びを、矢崎藍さんという作家が提唱しました。それが、1995年の朝日新聞に取り上げられました。 太字がお題です。
秋深き 隣はなにを する人ぞ」(芭蕉)
  「りんごころころ ころがりし闇」(藍)
さみしくて 朝まで泣いた 床の中」(里代)
  「優遇すると 肩たたかれて」(武雄)

逆に下の句の「七・七」に上の句「五・七・五」をつけるバージョンも。
ふっとせつない 沈黙の中」(聖子)
  「見つめ合い キスまでの距離 あと一歩」(範子)
  「箸だけは せっせと動く 老夫婦」(登美子)
網戸の穴を 出入りする虫」(ときよ)
  「脱皮した とうとう俺は 解脱した」(よしゑ)

 最後に「ため息も 生きてゆくのに 欠かせない」というお題があったので、当時の同僚に紹介しました。すると彼は国語の時間に1年生にその「付け句」をさせたのです。
ため息も 生きてゆくのに 欠かせない」(和子)
  「幸(さち)逃がさぬよう そっと静かに」(孝)
  「あいそ笑いも 時に欠かせず」(真二)
  「昨日の友は 今日の敵」(メット)
秀作がたくさん出てきて、職員室内全員で感心しました。
 皆さんも、友達とこんな「知的ゲーム」を楽しんでみてはいかがですか?

** 高校生のコトバ **************************

狂歌 : 宿題を 写して遊ぶ 夏休み 友達頼みの 高校生活 (十条紫苑)

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