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1479. 聖書 [宗教的感覚]

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                        キリスト教最大の伝道者パウロ

 今日は「倫理」の中の旧約聖書と新約聖書の違いについて考えてみます。旧約聖書は天地創造から紀元前5世紀までの出来事が書かれたユダヤ教の教典です。ユダヤ教は「モーセの十戒を守れば、神はユダヤ人を特別な民として選ぶ」という契約が柱となっていますが、「守れば繁栄、破れば破滅」という厳しい宗教です。

 一方新約聖書はイエスの誕生から約百年間の出来事が書かれたキリスト教の教典です。愛の宗教とも呼ばれるキリスト教では、イエスが「神の国はあなた方の間にある」と言っています。「幸せ」は将来与えられるものではなく、すでに与えられている事に気づく事なのだというのです。パウロも「自分自身で事を定める力が自分にあるのではない。私達のこうした力は神から来ている」と言っています。

 将来の幸せのために自分を律する旧約聖書的な生き方は自由度が低い気がします。一方、困難の中にあっても、神のはからいを信じてのびのびと生きる生き方には自由が感じられます。パウロも「主の霊のある所には自由がある」と語っています。

 したがって新約聖書の生き方の方が理想となるのですが、私のような凡夫には、旧約聖書の掟のような指針がやはり必要です。両方大事だとは思いますが、ただ「気づき」という個人の飛躍を求めている点で、新約聖書の世界の方が頭一つ抜け出ている気がしています。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 自分の話だけでなく、私の話もさせてくれ。 (もち)

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1471. マインドフルネス [宗教的感覚]

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          見ているだけで気持ち良い「端坐瞑想」の姿

 今日の坐禅会後の学習会では、マインドフルネスについて話し合われました。マインドフルネスとは、「今の体験に意識を向け、評価せず、とらわれのない状態でただ観ること」(Wikipedia)です。仏教の坐禅や瞑想、阿字観などがこれにあたります。

 評価をしないので、「マインドフルネスをしたらどんな功徳が得られるか」といった動機で臨んではいけません。仏教では、世俗的な「凡夫のゲーム」を離れた時に出会う仏の知恵を「気づき」と呼び、これをマインドフルネスと訳しています。

 ところで、このような説明で高校生の皆さんは瞑想する気になりますか?おそらく難しいと思います。私は、人生には「頃合い」があると思っています。高校時代はドロドロした欲望と格闘しつつ、「凡夫のゲーム」に勝つ算段を図って当然です。しかしやがて人生の辛酸をなめ、たくさんの「必要な無駄」を経て、この気づきに出会う人も出てくる事でしょう。

 王子として生まれたお釈迦様も、恵まれたまま一生を終える可能性は十分にありました。しかし仏の知恵の存在に気づいてしまったため、バラモン教の難行苦行に入り、その後そこを抜け出て悟りを開かれました。私達にも気づく人、気づかない人それぞれいて普通だと思います。いずれにしても、やがてやって来る死に対して一定の見識を待ち安心して臨めるような人生を送れたらいいですね。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 「なぜですか?」 聞かれただけで 怒んなよ  (鹿笑あずき)

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1435. 見えるか見えないか [宗教的感覚]

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                          弟子たちの前に現れたイエス (ルカによる福音書より)


 勤務校で宗教の授業を見学しました。教材は聖書の「ルカによる福音書」の24章13~35節です。(要約は以下の通り)

 イエスが処刑された三日後、二人の弟子が歩いているところに復活したイエスが現れ同行するが、二人はイエスと気づかない。イエスは彼らに自分の事について色々尋ね、旧約聖書の中で多くの預言者達が自分について書いている事を話して聞かせるが、歩行中彼らは気づかなかった。宿に入って食卓につきイエスがパンを割いた時、初めて彼がイエスだと気づいた。その瞬間イエスの姿は見えなくなっていた。

 イエスは「最後の晩餐」の時、パンを手で割いて弟子たちに分け与えました。二人は、同行者にその姿を見た時、彼がイエスだと気づいたのです。授業では、「イエスは別の姿でご自身を現わされたが、私達の周りにも色々な姿を借りて現れている。特に貧しい者・弱い者としていらっしゃるので、フードバンクなどを通して積極的に係わっていきましょう。」と結んでいました。

 先生の意図が上手く伝わる事を祈りながら見ていましたが、私としては感じる所がありました。関心を抱いている人に、神様は時々奇蹟を見せてくれます。それを偶然と切り捨てずに「神様の技」と見えるようになったら、その後の人生そこここに感謝の種を見出します。ことさら神様が出て来る必要はありません。「見えるようになったら、見えなくなった」というこのたとえ話、奥が深いと感じました。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 再テスト みんなで受ければ 怖くない (めい)

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1427. 死者の復活 [宗教的感覚]

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                       「聖パウロの回心」(ミケランジェロ)

 キリスト教の最も印象的な部分と言えば、十字架上で刑死したイエスが三日後に復活したという話ではないでしょうか。しかし、朽ちた死体が再ぴ復活するとは何とも考えにくい話です。そこで今回、この「復活」が何を意味するのかを、聖書の中に探してみました。場所はパウロの『コリント人への第一の手紙第15章』です。

〇私は他の全ての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。 (15-10)

〇「私達の主キリスト・イエスに結ばれて、私があなた方に対する誇りにかけて言えば、私は日々死んでいます(15-31)

〇死者の復活もこれと同じです。蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。(15-42-44)

 これら三つの内容を、私は「今の私の生き方は、イエスや両親等先輩の言動を核として構成されており、日々更新されている」と読みました。したがって「復活」とは、「私が死んでも、私の生きた姿は後輩たちの中で現実の私より力強く生きていくという事」だと感じたのです。

 しかしこれは今の私の感想であり、宗教は信じる人の数だけ真実がある事も認めます。宗教は奥が深く、興味が尽きません。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 「イライラは6秒待ったら静まる」と言われるが、それ位待てるならさほどイライラしていない。 (M)

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1398.千日回峰行 [宗教的感覚]

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                             千日回峰行中の修行僧
   
 比叡山延暦寺で千日回峰行を成し遂げた僧、光永(旧姓星野)圓道師(45歳)の若い時の動画を見ました。(動画)千日回峰行とは千日間山中を歩く荒行で、これを成し遂げた僧は戦後12人しかいません。

 浄衣(じょうえ)と呼ばれる白装束にわらじ履き、行を続けられなくなった時に自害するための「死出紐」と短剣を携行します。出発は夜中の2時。30kmの道のりを6時間かけて回ります。1〜3年目は年に100日、4〜5年目は年に200日。700日を満行すると、最も過酷な「堂入り」に入ります。入堂前に生き葬式を行い、9日間堂にこもって断食、断水、断眠、断臥(眠らない)で真言を十万回唱えます。6年目には60kmの行程を100日、7年目には200日歩きますが、前半100日は一日84km、後半100日は30kmに戻します。

 病弱だったため15歳で出家し、比叡山延暦寺の小僧となった師でも、この荒行に入る前は逡巡したと言います。入ってしまったら後戻りできない事が大きな不安でした。しかし、家にいたら長くなかった命と気づき、この命をこの行に捧げようと覚悟を決めたそうです。

 私の経験からも、このようなせっぱ詰まった決断は、「したもの勝ち」になるようです。「将来の仕事に一番向いている学部は何か?」と漠然と悩んでいる皆さん、今一番好きなものに照準を合わせ、思い切って進路選択してみましょう。進めば道は自然に開けてきますから。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 先生が誰かに当てようとしたとたん、みんな一斉に目をそらす。
(ペンギン)

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1375. 預かりもの [宗教的感覚]

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                                    りんご

 宗教哲学者ひろさちや氏のお話です。

①小学校で、「4個のリンゴを3人で分けたら1人分はどうなりますか。」という問題が出された。もちろん答えは「1個と三分の一」。ところが、ある子供が「1個」と答えた。答案では×をもらったが、その子は「残りはお母さんにやる」と言う。「1個と三分の一」だけが正解というのは学校だけでよい。家庭では家庭の物差しで子供を測ってほしい。それは、「子供は仏様からの預かりもの」というまなざしである。

②知恵遅れの子供を持つ知人の話である。その子は三人兄弟の真ん中だが、おやつでも何でも三人揃わないと絶対に食べない。ある日ケーキが二つあった。そこでその子に一つ、兄と妹に半分ずつに分けて食べさせようとしたら食べない。気づいた母親がそのケーキを半分にして自分も食べた。すると、その子も喜んで食べた。「損得の知恵はないかもしれないが、この子には仏様の知恵がある」、そう親は感じたという。そして、「その子は、仏様の知恵を学ばせるために、仏様が遣わしたのだ」と、感謝している。

 我が家の孫にも同じ思いを抱いた事があります。眠っている父親のそばで遊んでいた4歳の孫は、突然来客が来た時、三個しかないきんつばの一つをそっとパパのそばに運んでいました。(No.973) 見ていて、私の心が温かくなりました。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 中途半端に寝坊すると焦るが、ものすごく寝坊すると開き直る。 (キノコノヘッド)

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1371. 宗教 [宗教的感覚]

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                              伊勢神宮の本宮前

 「誰よりも懸命に神さまに祈りを捧げ、『幸せになるため』に信仰に身を委ねた祖母の最期は、控えめに言っても悲惨だった。」これは、昨日のインターネット上に載っていた宗教三世のライター・五十嵐大さんの文章の一部です。五十嵐さんは、小さい頃に祖母から強制された新興宗教で人生が大きくゆがめられたと感じています。

 私も幼稚園の頃、近所のお婆さんが我が家に新興宗教の勧誘に来て、なかなか帰らなかったのを憎らしく思った記憶があります。そもそも「幸せになるため」に信仰するという姿勢が間違っていると感じます。この姿勢は、神様や仏様を自分の幸せのために利用しているにすぎないからです。

 102歳で亡くなった私の祖母はクリスチャンでしたが、「幸せになるため」に祈っている姿は見た事がありません。彼女は生前、「ここまで生かしていただいた事には心から感謝してるよ。でも呼ばれたら喜んで行かせてもらうよ。」と言っていました。彼女の神様に対する思いは、「願い」ではなく「感謝」でした。私はこれが信仰の本来の姿だと思うのです。伊勢神宮でも、本宮は感謝の気持ちを伝える所であって、願い事は別宮でしなければなりません。

 神様に感謝できるという事は、「神様の意図を感じ取れる」という事なのではないでしょうか。ここから生きる希望と勇気を頂くのが正しい宗教だと、私は思っています。


** 高校生のコトバ **************************

名言 : 何か悪いことをした時に限って、母の足音が聞こえてくる。(excel)

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1370. 弱さ [宗教的感覚]

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                         アウシュビッツで殉教したコルベ神父

 長崎の修道士小崎登明氏(92歳)の話を聞きました。原爆が落とされた時、小崎氏は長崎市内の洞窟の中で魚雷製造の作業をしていました。ドンという音が聞こえて外に出たところ、家々は破壊され炭となった人々は顔から両目と舌だけが出ていました。林の中では、数日前に自分をビンタした先輩が腹を裂かれて横たわっていました。その彼に向って氏は「いい気味だ」と言って助けもせずに去ったそうです。その出来事が、原爆の日の心のしこりとなっていつまでも残りました。一人になった氏を浦上天主堂が救ってくれ、以後修道士の道を歩んでいます。

 氏は、やがてコルベ神父の事を知ります。神父は、脱走者が出ると連帯責任で10人が死刑にされるアウシュビッツ収容所で、死刑囚の一人の男性の身代わりに名乗り出て、亡くなりました。その男性はコルベ神父に謝意を伝えたかったのですが、私語が禁止されていたため言えませんでした。ただ神父のまなざしは優しく安心せよと語ってくれたそうです。男性はその後良心の呵責にさいなまれ続けました。

 小崎氏はその男性と会い、その握手のぬくもりの中にコルベ神父の愛を感じました。そしてそれを今、長崎で原爆の語り部として小中学生達に伝えています。小崎氏は語ります。「今生きている人は誰しも弱さを抱えている。弱さの中に生きる意味がある。それが感謝であり、それを糧に私達は前進すべきだ。」と。良いお話でした。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 自信や勇気があるから色々な事が出来るのではなく、色々な事を頑張ってきたから自信や勇気があるのだ。 (コーヒー)

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1318. どん底 [宗教的感覚]

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                            新型コロナウィルス感染確定人数の推移

 NHKラジオで僧侶川村妙慶師(No.753)の講話を聴きました。師が高校二年生の時、浄土真宗の僧だった父親が亡くなり、跡継ぎを拒否して進学したところ檀家が次々と去り、最後は一軒もなくなってしまいました。やがて様々なご縁を得て34歳で寺に戻り、住職となると檀家も徐々に戻ってきました。

 昨今、若い人々の寺離れ(離檀)が進んでいます。ある日、師の寺に先輩の僧侶が来て嘆きました。「檀家がどんどん離れるのが怖いんだよ。妙慶さんは、一度どん底を味わったから強いよね。」と。かつて檀家0の「どん底」を見た師でも離檀は怖いと感じます。しかし「どん底を味わったからこそ、怖いものはないと思えるようになった」と語ります。「底の底に阿弥陀様が確かにおられる事を感じるのです。これは頭ではわかりません。経験してみて味わうものだと思います。」とも。

 私もかつて東京で、子供がいるのに仕事がないという「どん底」を味わいました。それゆえに、今の生活は大きな力に導かれた結果と感じ、またあの苦しい体験がその後の人生を強力に支えているのを感じます。「どん底」なんて誰も落ち込みたくありません。しかしそこを経ねば得られないものがあります。だから「どん底」に落ちる事も神様の計らいと感じます。今の新型コロナウィルスという「どん底」にも、きっと意味があると私は信じています。

〇川村妙慶氏のブログ「一日一話」
http://blog.livedoor.jp/rococo8787/

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 「誰に似たんだか」と言っている本人に、一番似ている。  (S.O.)

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1295. 賭け [宗教的感覚]

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      東日本大震災の時間(2:46)に名取市の被災地にかかった虹

 東日本大震災の起きた3月11日、一昨日の午後2時46分、鎮魂の祈りを捧げていた名取市の震災メモリアル公園上空に、大きな虹がかかりました。昨年の10月22日、天皇陛下の即位正殿の儀の時も、それまでの雨空が晴れて大きな虹がかかりました。これらを「神様の働き」と見るか、「単なる偶然」と見るかで、人は分かれます。私達はどちらも選択できますが、パスカル(1623~1662)が「賭け」の理論で面白い事を言っています。

 〇神がいると思って生活して、
  ・死後に神がいれば無限の命を得る。(+∞)
  ・死後に神がいなくても失うものはない。(±0)
 〇神がいないと思って生活して、
  ・死後に神がいれば永遠の地獄に落ちる(-∞)
   ・死後神がいなくても失うものはない。(±0)
 〇したがって、神がいると思って生活した方が安心であり、得であり、幸福である。

 このような功利主義的な発想は、真の宗教的態度とは言えないと感じますが、迷っている人には良い入門の手引きになると思います。私は、69年間の人生を振り返るたびに体験的に大きな力(神も仏も一緒です)に助けられ、導かれてきた事を感じています。

** 後期構成のコトバ **************************

名言 : 変な夢は覚えているけど、いい夢はなぜか所々忘れている。  (ヤマ)

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1268. 二世カルト [宗教的感覚]

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                                  幸せ

 時々玄関先に母子で勧誘に来る宗教団体がいますが、そのような子供を「二世カルト」と呼ぶそうです。ネット上に二世カルトの苦悩が書かれてありました。

 二世カルトのAさん(20代女性)は、小学校三年生の時、家で運動会の出し物の「花笠音頭」を練習していました。そこに宗教団体の幹部がやって来て、「歌詞に仏教的な言葉が入っている」と強い拒否感を示しました。そこで担任の先生に「歌えません」と話すと、「あなた、可哀想にね」とつぶやかれ、自分が他人から哀れに見られている事に大きなショックを受けたそうです。18歳の時双極性障害を発症し、宗教から距離を置きました。

 そんな彼女が、三年前レジ打ち技術コンテストで好成績を収めました。「それまでは、どれ程成果を上げても、『神様のおかげ』の一言で片づけられました。この時初めて努力への正当な評価を得て、自分に一人立ちする力がある事を実感しました。」と自信を深め、以後社会福祉法人の正職員として豊かな人生を送っているそうです。

 この記事を読んでハッとさせられました。かつて私は不信心でした。そんな私でも、今は毎日神様に感謝しながら生きています。しかし他人に、「あなたの幸せは神様のおかげだよ」と言ってはならないんですね。この感覚は、いずれ時期が来たら本人が到達するでしょうから。


** 高校生のコトバ **************************

狂歌 : 男の子 友達だろうが なかろうが 一緒にいると 彼氏に見える (名無しの権兵衛)

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1264. 答え合わせ [宗教的感覚]

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                  二十歳の時、私は「大凶」を引いたのですが… (ネットより)

 昨年の元朝参りでおみくじを買いました。その時、その文面に影響を受けて私の本来の進路を外してはいけないと思い、読まずに財布の奥にしまいました。(No.1077) 孫が、「おじいちゃん見せて」とねだりましたが、「ダメ。これは年末に答え合わせするんだから。」と言い含めました。すっかり忘れていたら、何と今日、それが一年ぶりに出てきたのです。何が書かれてあるのか、こわごわ開いてみました。

「第四十八番御神籤」
時が来て、思う事も次第次第に出来て幸福目の前に集まるけれど、よくよく物を考えてしないと不意の事があって損をすることがある。これを心得てすればよい。
運勢 末吉。
願望 驚く事あれどあわてねば叶う。

学問 危うし。全力を尽くせ。
争事 末は勝つが今は凶。
病気 気を強くもてば安心。

 当たってます。昨年の私は四月に左目が動かなくなり、脳神経内科でも原因不明でした。しかし八月には完治しました。当時は日頃の生活態度を深く反省したものでしたが、このおみくじを見ていたら、もう少し気が楽だったかもしれません。…ん?だから見なくてよかったんですよね。それにしても、学問も争事も、何と含蓄の深い言い回しでしょう。これなら、その場で見ても人生プラスに働きそうです。でも真剣に生きるためには、やはり知らないに越した事はないと感じました。

** 高校生の言葉 **************************

川柳 : 好きな人 LINEの既読 心理戦  (きのこのこ)

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1257. ジレンマ [宗教的感覚]

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                    世界の宗教分布(ネットの「コトバンク」より)

 なぜ博愛を説くキリスト教徒が、残虐な十字軍や三十戦争を引き起こしたのか?以前、私なりに「あっ、これだ」と感じた事がありました。

 信仰一途の敬虔なシスターと話していた時、私が「羽生弓弦君を見ていると、まるで神様がそこに降り立ったように見える。」と言ったとたん、「それはシャーマニズムという間違った考え方です。」と拒絶されました。彼女にとっては、唯一絶対の完全な神が不完全な人間に乗り移るなどという話は神を冒涜するものと映ったようです。

 凡人の私は、「人によって信じる神が違っていてもいいし、神がいないと信じるのも自由だ」と思うのですが、宗教的な神秘体験を経た人は、安易に妥協できないんですね。溝は広がるばかりだと感じたので、会話は切り上げました。

 教団に入り修行して信徒になると、見えて来るものがある反面、それを否定する人に対しては頑なになりがちです。「宗教的真実は、教団に入らなければ解らないが、入ってしまうと客観的に見られなくなる。」このジレンマの解決法は簡単に見つからないと思っていたら、来日した聖フランシスコ教皇が「どの宗教も共存は可能」と話されました。とことん修行を極めた方が、何と凡人の私の立つ位置に戻って来て下さったのです。これを励みに、私ももう少し宗教を研究してみようと思いました。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 嫌いな事を続けると、いつかは続けてて良かったと思う。 (チョコビ)

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1254. 「今・ここ」 [宗教的感覚]

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                 タイの日本人僧侶プラユキ・ナラテボー師

 「あなたの今の悩みは何ですか?」と尋ねられたら、何と答えますか。「4月に大学生になれるかが心配」「昨日友人に悪態をついた事を後悔」など、様々あるとは思いますが、それらに共通している事は、それらが未来か過去の事であって、「今起きている事についてではない」という事です。

 これは、Eテレで話されたプラユキ・ナラテボー師の講話の中の一つのエピソードです。プラユキ師は、私達は今ありもしない事に悩み、それゆえ今をしっかり見ていないとおっしゃいます。原始仏教は「今・ここ」に気づく事の重要性を説いていると、仏典「一夜賢者経」の一節を読み上げました。そして、今この瞬間に意識を向けるための簡単な修行法として、「手動瞑想」を勧められました。これは手を片方ずつ交互にゆっくり動かして、一連の動作を繰り返す修行法です。具体的には下のアドレス内にある動画を見て下さい。私達は、今をしっかり見つめる事で、自由な生き方ができるようになるそうです。

 そこで今日の座禅会では、「過去と未来の間にある真実(=今)」という感覚を念頭に、坐ってみました。すると、心に浮かんでくる雑念をそのまま観察するという感覚が何となく解ったような気がしました。さらに帰りの車中、目の前に広がる風景を楽しむドライブも、この感覚に近いと気づきました。

〇プラユキ師の「手動瞑想」の簡単な解説。
https://www.dananet.jp/?p=6263&page=2                         

〇原始仏典「一夜賢者経」の一節

 過ぎ去れるを追うことなかれ
 いまだ来たらざるを思うなかれ

 過去 そはすでに過ぎ去りたり
 未来 そはいまだ到らざるなり

 されば ただ現在するところのものを
 そのところにおいてよく観察すべし

 揺らぐことなく 動ずることなく
 そを見きわめ そを実践すべし

 ただ今日まさになすべきことを熱心になせ

** 高校生のコトバ **************************

狂歌 : 身の丈に 合った本しか読んじゃダメ そんなアナタの 丈はどれほど? (終身雇用)

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1242. 松本サリン事件 [宗教的感覚]

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         被害者なのに犯人にしたて上げられた河野義行氏

 死者8人・重軽傷者約600人を出したオウム真理教の松本サリン事件から、今年で25年目になりました。事件の被害者で、妻をサリンの後遺症で亡くした河野義行さんへのインタビュー記事を読みました。

-サリンでご自身も被害に遭う中、長野県警や報道機関からは犯人扱いされれました。
「死を意識しました。視力異常で見るものの像が流れ始め、吐き気がして立っていられませんでした。警察からは『犯人はお前だ』と自白を強要され、自宅には無言電話や脅迫の手紙が沢山来ました。」
-中学生と高校生の3人のお子さんには、苦境をどう受け止めようと話したのですか?
「子供には『人は間違うものだ。間違えているのはあなた達の方だから赦してあげる。そういう位置に自分の心を置こう』と言い聞かせました。意地悪する人より少し高い位置、赦すという場所まで心を引き上げようという事です。悪い事はしていないのだから卑屈にならず平然と生活しようとの思いでした。」
-恨みたい気持ちはないのですか?
「どれだけ恨んでも過去は変えられません。恨むという事は途方もないエネルギーを要しますが、何もいい事がない。不幸の上に不幸を重ねる行為です。そんな事をあえて自分から選ぶ必要はないでしょう。ある意味、これは損得の問題です。」

 先日のガラルダ神父の言葉(No.1239)と重なりました。達観した河野さん、凡人の私と同じ69歳です。

**  高校生のコトバ **************************

狂歌 : 夏まつり 昨年友と 見た花火 今年も隣に その友がいる  (森のくまさん)

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1239. ゆるし [宗教的感覚]

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                     フランシスコ・ローマ教皇

 フランシスコ・ローマ教皇が23日に来日します。教皇の来日のテーマは「すべての命をまもるため」。焦点の一つが死刑制度です。朝日新聞に、長年教戒師として死刑囚と対話をしてきたハビエル・ガラルダ神父(88)の記事が載っていました。神父は死刑制度には反対の立場です。神父は、死刑囚が聖書とノートを携え一生懸命神様の言葉を記していく内に、心がきれいになっていくのを感じるそうです。

 「被害者感情を考えると、死刑制度は必要では?」との質問に、
「それは『復讐』と同じで、いったんは気持ちが落ち着くかもしれませんが、深い所の自分は落ち着かないと思います。人間の心には『浅い』所と『深い』所があり、浅い所の自分とはエゴイズムと傲慢に満ちていますが、深い所の自分は人を愛したい思っている自分、本当の自分です。死刑では心の深い所は癒されず、被害者の心を癒す薬にはなりません。むしろ『ゆるす』事で心は落ち着くのではないでしょうか。負の連鎖は自分で断ち切らなくてはなりません。」
 「こころの深い所と話し、その声を聴く。それこそが、本当の宗教心だと思います。」

 幸運にも、これまで死刑囚・被害者遺族のどちらとも縁のなかった私には難しい課題ですが、つらい経験を重ねてきた神父の言葉には、強い説得力を感じました。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 苦手な教科ほど遺伝する。 (さやえんどう)

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1227. 愛と祈り [宗教的感覚]

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                        祈りの姿 「晩鐘」(ミレー)
               
 独学でギリシア語を学んで聖書を翻訳した、山浦玄嗣氏の「愛と祈り」についてのご講演を聴きました。以下はその奥深い内容の要約です。

 日本語の「愛」は、「好き」という自分では制御できない感情を表す言葉で、昔は目上の人には使えなかった。そんな場合は「慕う」を使った。しかしキリスト教の「愛」は「相手を大切にする」という利他的な行動を意味し、感情は問題にしない。だから、「神を愛せよ」や「汝の敵を愛せ」が成り立つ。

 また、日本人の「祈り」には、辞典に「神仏の力にすがって、良い事が起こるように願う」とあるように、利己的な姿勢が根底にある。これは神に専門分野がある多神教の日本だから言える事で、万物を造った神を崇拝する一神教の場合には、被造物側から創造主に注文をつける事は考えられない。ユダヤ人の祈りの基本は「シュマー、イスラエル」(イスラエル人よ聞け)であり、祈る事は「私は何をしたらいいでしょうか?」と尋ねる事なのである。

 では神の返事はどうやったら聞けるか?ヘブライ語に「ダーバール」(出来事、言葉)という単語があるが、ここに答がある。我々の身の回りに起こる「出来事」が、そのまま神の「言葉」なのである。

 キリスト教では、愛も祈りも「相手のために」行うべきものであり、私達は「出来事に潜む神の意図」を読み取る努力をしなければならないという事を学びました。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 ; ただこねて 買ったものほど すぐ飽きる  (Dada)

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1206. 霊魂 [宗教的感覚]

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                 イエスを神の子と信じるのがキリスト教徒

 「私は霊魂が存在しない事を証明できた。」先日の聖書購読会で、一人の先生が熱く語りました。私は逆の霊魂存在論派なので、その問題提起が面白く、議論になりました。

 先生曰く、「霊魂が見えるためには、光を反射する物体が存在しなければならない。しかし物体は無い。ゆえに霊魂は存在しない。」と。

 私が霊魂の存在を信じる理由は二つあります。一つ目は、No.377のデジカメ・フリーズ事件。私のデジカメは、どうしても仏壇に向かってはシャッターが切れませんでした。この世では、モノの有無とは別に、モノとモノとの間に見えない「力」も働いています。例えば、磁力も電波も人間の視力では捕らえられない「力」です。だからモノ以外に霊魂の「働き」が存在したとしても不思議はないと思うのです。

 二つ目は、イエスや道元など偉大な宗教家の無謬性です。どんな言葉にも一貫性があり、矛盾がありません。まるで調和ある宇宙のようです。この事は、彼らが話す前にすでに基準ができていたためと考えられます。私はこれを神からのメッセージと捉えています。身体も単なる偶然からできたとは思えません。同様に完璧な思想も単なる思い付きでは説明できない気がするのです。

 論証する事と信ずる事、全く土俵が違うようで、先生と私の議論は最後まで平行線でした。

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名言 : 人の不幸は見ないフリ。  (他力本願)

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1202. マリアの祈り [宗教的感覚]

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                聖母マリア

 勤務校で、仙台司教区の森田神父のお話を聴く会がありました。内容が深く、肌が粟立つ感動が何か所かありました。最後に神父は、最近のご自身の体験談を語られました。

 ある雨の日、正装で道路を歩いていると、脇を一台の車が猛スピードで走り去ったため、全身に泥水を浴びてしまいました。神父もそこは人の子、「こん畜生っ!」と思いましたが、いけないと思い直し、そのドライバーのために祈ったそうです。

 私はそれを聞いて、その時神父が憎い相手にどんな言葉で祈ったのか疑問に思いました。そこで会終了後、神父に聞いてみました。すると神父は「マリアの祈りです。※」とお答えになり、私はハッと気づかされました。

 この世で二人の人が憎み合っている時、どちらも相手が悪いと思っています。しかしどちらが本当に悪いのかは、当事者には分からないはずです。だから、マリア様に「私達罪びとのために主に祈って下さい。」と頼む事で、自分の怒りを鎮静化させるのだ、と。主の声を聞けない私達にとって、「マリア様を通して主に願う」という所に救いがある気がしました。

 職員室で、キリスト教に造詣の深い先生にこの話をしたところ、彼も即座に「マリアの祈りでしょ。」と答えており、これはクリスチャンにとっては常識なのだと改めて知りました。

※ アヴェ・マリアの祈り

 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
 主はあなたとともにおられます。
 あなたは女のうちで祝福され、
 ご胎内の御子イエスも祝福されています。
 神の母 聖マリア、
 わたしたち罪びとのために、
 今も、死を迎える時も、お祈りください。
 アーメン。

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川柳 : お弁当 心にしみる 母の愛  (ぶどう)

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1195. 機微と楽しみ [宗教的感覚]

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                     京都大学哲学科教授 西田幾多郎氏

 道元禅師は、坐禅とは「精神を鍛えるため」といった目的達成のための手段ではない、と説いています。したがって「悟りを得るため」に坐禅をするというのは、そもそも間違っているそうです。凡夫の私は、それなら座る事の中に「何か楽しさを見つけよう」という気持ちで、昨日の坐禅会は座ってみました。

 最初に感じたのはミンミンというミンミンゼミの声。かすかにヒグラシゼミ。道路を走るトラック。突然降ってきたパラパラという雨音。びっくりしたかのように静まる蝉達。聴覚だけでもこれだけ楽しめると気づきました。

 目は半眼ですが、目の前の板の節目しか見えないので、他の感覚が鋭くなっています。お線香の香りとかすかな雨上がりの匂い、流れ込む涼しい風。坐骨と両膝の作る三角形の重心上で、骨盤と背骨が微妙に動きながら調整をとる感覚。内部感覚をこんなにじっくり味わう事は、日常ありえません。これが坐禅の奥深さか、と気づいたのです。

 ところが終了後に和尚様から学んだ呼吸のお話はさらに深いものでした。呼吸は横隔膜の上下に伴う全身の緊張と弛緩の二層の感覚を生みますが、個々の呼吸は様々な条件によって絶えず微妙に変化しています。「同じ息とは二度と会えない」とおっしゃいます。それを楽しんだのが西田幾多郎氏でした。こんな微妙な境地を楽しめたら、人生楽しい事ばかりでしょうね。

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名言 : 一瞬の歓び、それもまた幸せである。  (健己)

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1193. 愛の存在証明 [宗教的感覚]

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                           善きサマリア人 (ゴッホ作)

  勤務校ですばらしい教員研修会がありました。講師はギターを手にした東京の関谷義樹神父。お話は実に分かりやすい人生哲学でした。

 まずは「人間の本質は愛である事」の証明です。
神父はこれをキリスト教的な三段論法によって明快に答えられました。
 ①第一命題:神は人を自分に似せて創った。(創世記1-27)
 ②第二命題:神は愛である。        (ヨハネによる福音書4-16)
 ③結論  :ゆえに人間の本質は愛である。
神の似姿として創造された私達には、神の愛も当然分有されているとの論理です。

 キリスト教を信じない人には、この証明は意味を成しませんが、続けてされた次の話には誰もが賛同するのではないでしょうか。

 愛は「見て、近づいて、共感して、与える」もの。(ルカによる福音書10-29「善きサマリア人」) 先生方は生徒と「共にいる事」を楽しんでいるだろうか?自分の小さな犠牲を受け容れ、生徒のために尽くせ。キリスト教の中にはパラドックスがいくつかあるが、自分が小さくなって誰かに尽くす時、そこに「永遠の命」があるというのもその一つ。もっと生徒達の中に入るべし。

 翌日の全校集会で、校長先生は早速このお話を実行に移され、なんと最初の挨拶はステージからフロアに降りて生徒達の中に入って行いました。生徒達の顔が一斉に明るく輝きました。

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川柳 : 買う気なし けれど手が出る 限定品   (mp3)

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1183. 安定 [宗教的感覚]

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                                  釈徹宗氏

 カーラジオから、本仮屋ユイカというキャスターが浄土真宗の釈徹宗というお坊さんと対談する番組が流れていました。「悪口」や「怒り」にどう対処するかという事が、話題になりました。

 「悪口」については、「あのブッダにでさえ悪口を言う人がいるのですから、悪口を言われないように生きようとする事自体無理なのです。さらりと聞き流す生き方が一番です。」「怒り」については、「相手の言動であなたが怒る事は、相手の思うつぼにはまる事です。平常心でニコニコしているのが一番の対抗策なのです。」

 本仮屋さんが、「すぐイラッとしたりホッとしたりする自分は、どうやったら安定した毎日が送れるでしょうか?」と相談すると、「安定には、ガッチリと動かない固定した安定の他に、ある程度の動きのゾーン内での安定があります。この後の方の動的な安定の方が実は強いのです。」

 確かに、自転車に乗る時も手のひらにほうきを逆さに立てる時も、手を小刻みに動かす事が肝要です。起こる感情は止めようがありませんが、その感情をしっかり見つめ、それに流されなければいいんですよね。これが仏教的人生観と理解しました。悟りを一人占めせず、それを瞬時にしかも具体的に解説できる釈氏の力量に感動しました。

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名言 : 二度の失敗「三度目の正直」と念じるが、結局「二度あることは三度ある」である。 (ピカ子)

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1164. 反ユダヤ感情 [宗教的感覚]

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                       ユダヤ教の教会(シナゴーグ)の内部

 カントを生み出した思慮深いドイツ人が、なぜ600万人ものユダヤ人を殺せたのか、その理由を見た気がしました。昨日の聖書講読会で隣人愛を説くパウロの「ガラテヤの信徒への手紙」を読んだ時のことです。

 1世紀前半、熱心なユダヤ教徒のパウロは、異端と見られていたキリスト教徒を厳しく迫害していました。しかしある日、「復活した」イエスの言葉を聞き、回心して熱心なキリスト教徒となりました。以後彼は、ローマ帝国内で精力的に布教を行い、皇帝ネロによって殺されました。

 その彼が、ガラテヤ地方(トルコ)の弟子達に書いた手紙が「ガラテヤの信徒への手紙」なのですが、その冒頭に「私達の話す内容に反する内容を信じる者は呪われるがよい」と二度にわたって書かれているのです。自身の前半生への自己批判や自己嫌悪の感情が色濃く出たものと思われます。以後、ヨーロッパのキリスト教徒にとって、ユダヤ教徒は神から「呪われるべき」存在となりました。

 これが二千年近く伝えられてきたのですから、その感情は一部の日本人に見られる嫌韓感情をはるかに超えるものと思います。そこをうまく突いたのがヒトラーで、人々は易々と彼の言葉に乗せられてしまいました。反ユダヤ感情の根は深いと感じます。

 今私は、敬虔なユダヤ教徒の考え方も、ぜひ聞かせてもらいたいと考えています。

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狂歌 : 母を見て 買い物かごを 持ちたれば 肩にずしりと 苦労の重さ  (バルカン)

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1150. お布施 [宗教的感覚]

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                 お布施
 座禅会で、和尚さんがお布施について話をされました。お布施とは自分の持っているものを差し出す事です。お布施にも、財施(献金する事)と法施(真理などを説く事)の二種類があるそうです。

 弟子の一人がお釈迦様に聞きました。「財施と法施では、どちらが大事ですか?」するとお釈迦様は「法施だ。」とお答えになりました。「財は何年持つか分からないが、法は何年も残っていく。」という理由でした。この話を聞きながら、心のよこしまな私はつい余計な事を考えてしまいました。「どちらが良いか」と迷いながらするようなお布施は、本当のお布施とは言えないんじゃないか、と。

 聖書にも、「あなたは,憐れみの施しをする際,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたの父が報いて下さるでしょう。(マタイ福音書 6章4節)」とありますが、“報い”を期待している限り、結局は自分のための行為に見えてしまうのです。

 本当のお布施や慈善行為とは、我が子に対する母親の「居ても立ってもいられない」から行うようなものではないでしょうか。とはいえ、私自身そんな心境にはなかなかなれません。口だけの生意気な私で申し訳ありません。

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狂歌 : 分かる時には 当てられないのに 聞いてない時 当てられる (S.K.)

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1126. 宗教的感覚 [宗教的感覚]

 
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                            こんな看板見たことありませんか?

 時々「死後さばきにあう」と書かれた小さな看板を見ます。それを見るたび、「裁きが怖いので『隣人愛』を実践する人は、本当に善い人と言えるだろうか?」と考えてしまいます。たとえそんな人に「愛」されたとしても、私は結婚したいとは思いません。

 聖書講読会で、新約聖書の「テサロニケの信徒への手紙2」を読む事になりました。これは、パウロが弾圧の厳しくなってきたテサロニケにいる信徒に書いた励ましの手紙です。

 「イエスの再臨の前には、神に反逆する『不法の者』が出現して人々を惑わす。しかし彼らは復活したイエスによって殺され、彼らに従っていた不義の人々はその罪によってイエスに裁かれる」
 「あなた方はイエスの教えを固く守り続けなさい。敵対者に関りを持たないようにしなさい。しかしその人を敵とはみなさず、兄弟として警告しなさい。」

 キリスト教も仏教も好きな私ですが、まだまだ未熟者なので、人間は「白か黒か」の二者択一で生き方を決められるものではないと感じています。善い人と言っても、「白っぽいグレー」といった所が現実ではないでしょうか。

 「裁かれたくないからきちんと生きる」のでは、本当の自分を生きていない気がします。むしろ、「正しいと思う方向に舵を切ってみたら、予想外の力を頂いた」という実感が、宗教的感覚なのではないでしょうか。

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名言 : 足の遅いヤツに限って妙に持久力がある。  (T and K)

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1117. ジレンマ克服法 [宗教的感覚]

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                                 山川宗玄老師

 岐阜県正眼寺の山川宗玄老師(69歳)のお話です。

 「入門して三か月目、修行が辛くて逃げ出そうとした事がある。腰痛がひどく、座禅ばかりか作務も辛くてしょうがない。このままではひどくなる一方だが、かと言って修行から脱落したとおめおめ帰りたくもない。

 すると一つの考えが浮かんだ。修行中にバタッと倒れれば、いくら鬼のような先輩達でも病院に担ぎ込む事だろう。そうすれば医者の診断でこれ以上の修行は無理となり、名誉の負傷で故郷に戻れる。早速その日から、一刻も早く体を壊そうと、以前にも増して無茶な修行と作務に徹した。

 一日のお勤めを終えると夜中の二時。そんな自分でも時計の二時の音を聞くと、「あと一時間半しか眠れない」と健康を案じる。ところが三週間程経った頃、突然「あと一時間半も眠れる」と思えた。言葉では説明できないが、意識の全てがガラリと変わり、以後辛さも吹っ切れて今に続いている。」

 いいお話でした。怒鳴ろうかあやそうかと迷うような難しい生徒指導の場面でも、何もしなければ何も変わりませんが、生徒の事を思って発する言葉であればどちらでも大丈夫です。皆さん、人生でにっちもさっちもいかない場面に出くわしたら、山川老師のようにマイナスにでもとにかく動いてみて下さい。神様は、動き始めた人を必ず応援して下さいますから。

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狂歌 :  夏休み 課題終わらず 最終日 やけになって 現実逃避   (珠華)

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1110 試練 [宗教的感覚]

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               イスラム教のモスク   

 今年も勤務校では、「卒業生に贈る聖書のことば」という小冊子が配られました。これは教職員が聖書の言葉をヒントにそれぞれの考えを書いたものです。

 今年は、「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせる事はなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」(コリントの信徒への第一の手紙 10-13 )という一節を引用したものが多くありました。これは、「どんな苦難でも、道は必ず開ける」と、私達を勇気づけてくれます。

 ところでイスラム教では、家族の死や病気などの辛い状況の他、財産や美貌など私達が求めるものも試練とされています。例えば美貌。美貌ゆえに異性から多くの誘惑を受け、ついつい邪心が起きてしまうのも人間です。しかし、「悪行を犯すという意図を持ち、それを実行に移さなかったのであれば、神はそれを一つの善行として記録される」と、イスラム教の解説書「サヒーフ・ブハーリー」は励ましています。

 苦難の試練は、分かりやすいので生活改善に直結しそうですが、財産や美貌といった試練は見えにくいだけに、それに負けて身を持ち崩しそうです。私達、良い時も悪い時も、「奥に潜む神の真意」を問う姿勢が求められていると受け取りました。

○美貌と試練 (コーラン解説)
https://www.islamreligion.com/jp/articles/1825/

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川柳 : すぐ分かる 鋭い視線 女の勘  (湯)

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1109. 翻訳 [宗教的感覚]

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                             ルター(1483-1546)

 英語の「rice」を日本語に翻訳すると、「稲、米、ごはん」となります。稲とご飯では姿形が大分違いますが、「胚を持ったでんぷんの粒」という本質は共通です。

 聖書のマタイによる福音書に、「疲れたもの、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(11-28)という一節があります。勤務校のフランス語の先生によると、聖書を初めてドイツ語に翻訳したルターは、大胆にもここを「元気づけてあげよう。(独 erquicken )」と訳したそうです。この相反する二つの語句「休ませる」と「元気づける」に共通する本質は何かを考えてみました。

 私はそれが「信仰心」なんだろうと感じます。正しい事を黙々とし続ける人を世人誰もが尊敬するわけではありません。陰で悪口を言う人等、必ず行く手を阻む人が出てきます。そんな人々に囲まれ孤独感に苛まれた人が、祈りの中で神様から「それでいい。心配するな。」との声を聞いたら、それは大きな慰めであり、同時に勇気づけになる事でしょう。信心深い人にとって、この二つはは同じものと感じます。

 信仰心薄い我が家でも、我ら老夫婦、「近頃、耳が遠くなった」等と言っては「加齢、加齢。」と慰め合っていますが、これもまたある意味励まし合いになってます。

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名言 : 一緒にいて楽しい人より 離れていると寂しい人がいい。  (まちゃあき)

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1104. 落としどころ [宗教的感覚]

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                                        横山名誉教授と大栗教授

 久しぶりに面白い対談を見ました。それは、「心の外には何も無い。世界とは心が生み出した産物」と説く仏教家と、「心とは別に独立した世界が存在する。」と主張する科学者の対談です。仏教家は横山紘一立教大名誉教授、科学者は大栗博司東大教授です。少年同士のようなやりとりは大変好感が持てました。(NHK「こころの時代」)

横山「宇宙も全て人の心が生み出したものですから、人が宇宙を知る事はできません。」
大栗「科学者も宇宙本体を知る事はできません。しかし、そこにあるモノ同士の関係に着目し、仮説を立てて検証できたらそれを真理とします。仏教は、どうやって真理を検証されるのですか。」
横山「その説を信じたら迷いや苦しみが消え悟りの境地に入れたら、それが真理です。」

 平行線のままなのでハラハラしながら見ていたら、大栗氏がうまくまとめました。
「それぞれ真理の確認方法が違うんですね。科学はより多くの事例に合うものが真理。仏教はより多くの人の悩みが消えたものが真理。」と。そして、仏教が「苦しみも心が作り出したものだから、心を変えれば消す事ができる」と説く点で、また科学が「この世の仕組みを解明していく事で人類の幸せに貢献できる」という点で、「どちらも人の幸せのためにあるんですね」と落としどころを見つけました。さすがでした。

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名言 : 「そんな子だったんだ」より「違う一面が見られて嬉しい」と言われたい。 (名無しの権兵衛)

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1078. サタン [宗教的感覚]

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                        聖書の「テサロニケの信徒への手紙」の一部

 パウロの言葉の中に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい。」という一節があります。( テサロニケの信徒への手紙5-16 ) 今回はこれを考えてみました。

 「もし津波で家が流されても、あなたは喜んだり感謝したりできるか?」との反論が出そうです。たぶん今の私にはできません。しかし想像する事はできます。私達の周りには、天災のように善い行為を邪魔しようとするサタンが多数存在しています。そもそも私自身の肉体が私にとってサタンです。パウロですら、「私は自分のしている事が分かりません。自分が望む事は実行せず、かえって憎んでいる事をするからです。」(ローマ人への手紙 7-15)と告白しています。

 しかしそんなサタンがいるからこそ、私は自分の中に清らかな心がある事に気づきます。「肉」と「心」の絶え間ない緊張関係の中で、私は自分自身の成長や神の配慮を実感します。イエスの伝道にも、結果的に裏切り者のユダが必要不可欠でした。津波や犯罪者といったサタンも、実は全て神の配慮(配役)と気づいた時、私達はどんな事にも感謝し、喜んでいられるのだと思います。「祈り」とは、そんな危うい自分でも、心だけはしっかり神と繋がっていられるよう願う事なのではないでしょうか。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 : 夏休み 終わると勝手に 絶望感  (k)

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