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1944. 山上の垂訓 [宗教的感覚]

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                     山上の垂訓 (Wikipediaより)

 新約聖書の中に山上の説教(垂訓)という一節があります。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、その人たちはなぐさめられる。…」

 幸せな人の例が8つ並んでますが、その「幸い」は、私達が普段感じる幸せとは違います。悲しむ人が幸せなはずがないからです。英訳を見てみました。
 "Blessed are the poor in spirit, for theirs is the Kingdom of Heaven. 
 Blessed are those who mourn, for they shall be comforted.
「心の貧しい人々」というのは、「心に不足を感じている人々」「自分の不完全さを自覚している人々」と解釈でき、そのような人々は他人と助け合う謙虚な生き方ができるので、死後は神に祝福されるという意味のようです。

 しかしニーチェはこれを奴隷道徳と批判しました。これは、「強くなりたい」という本来的な欲求が満たされない人々が、その怨恨(ルサンチマン)をキリスト教という倒錯した価値観にすり替えて自らを納得させているだけだ、と。授業で生徒達にどちらが好きかを聞いたところ、「ニーチェ」派が圧倒的でした。
「キリスト教の現状肯定的な考え方からは、政治を変えようとする意欲が湧いて来ない」
と言います。実に健全です。

 私はこのやり取りを通して、キリスト教や仏教の受け入れには、それにふさわしい人生のステージがあると感じました。高校時代は、むしろ「高望み」や「欲まみれ」で大いにもがくべき時期なんですよね。

** 高校生のコトバ **************************

狂歌 : 久々に 会う友人との 距離感を 思い出せずに どうする私  (A)

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tyuuri

 私は、キリスト教徒でもなく、聖書にも疎い者ですが、最新の聖書にはその出典が記されています。
 最初の一文は、旧約聖書イザヤ書57.15によるもので、
 「私は高く、聖なる所に住み 打ち砕かれた人、低められた人と共にいて 低められた人の霊を生き返らせ 打ち砕かれた人の心を生き返らせる」とあります。
 三浦綾子さんは、「心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものをも持っていない人であろう」「このイエスの言われた幸福こそ、決して移ろうことなく、奪われることのない幸福なのである」と著書で述べています。(『新約聖書入門』)
 三浦夫妻は共に大病を経験された方なので、その絶望の中でイエスに出会ったのでしょう。すなわち、ここでの幸福とは現世のものであり、死後復活して与えられるものではありません。
 私も大きな病気を経験しましたが、キリスト教徒にはなりませんでした。でも、心引かれるものはあります。それは、垂訓の2行目
 「悲しむ人々は、幸いである その人たちは慰められる」
の言葉にあるように、「慰め」があるからです。先行きが見えない中で、慰めてくれる人がいるのは大きな希望なのです。
by tyuuri (2023-10-15 17:34) 

サボテン

tyuuri様、
 大病を経験したtyuuri様ならではの貴重なご意見をありがとうございました。書かれてある三浦綾子氏の「心の貧しい人」の解釈を読んで、断捨離の境地を思い浮かべました。何も持たない生き方から来る幸せです。確かに現世的ですね。そのような解釈もできると思います。勤務校のシスターによると、聖書の読み方には人それぞれ違いがあって構わないとの事でした。人間にとって「慰め」が必要という点も共感できます。きっとその最たるものが、神様からの慰めだと思います。そんな神様の働きを日ごろの生活の中で敏感に感じ取れる人に早くなりたいと願っています。
 コメントありがとうございました。
by サボテン (2023-10-15 22:09) 

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