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1371. 宗教 [宗教的感覚]

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                              伊勢神宮の本宮前

 「誰よりも懸命に神さまに祈りを捧げ、『幸せになるため』に信仰に身を委ねた祖母の最期は、控えめに言っても悲惨だった。」これは、昨日のインターネット上に載っていた宗教三世のライター・五十嵐大さんの文章の一部です。五十嵐さんは、小さい頃に祖母から強制された新興宗教で人生が大きくゆがめられたと感じています。

 私も幼稚園の頃、近所のお婆さんが我が家に新興宗教の勧誘に来て、なかなか帰らなかったのを憎らしく思った記憶があります。そもそも「幸せになるため」に信仰するという姿勢が間違っていると感じます。この姿勢は、神様や仏様を自分の幸せのために利用しているにすぎないからです。

 102歳で亡くなった私の祖母はクリスチャンでしたが、「幸せになるため」に祈っている姿は見た事がありません。彼女は生前、「ここまで生かしていただいた事には心から感謝してるよ。でも呼ばれたら喜んで行かせてもらうよ。」と言っていました。彼女の神様に対する思いは、「願い」ではなく「感謝」でした。私はこれが信仰の本来の姿だと思うのです。伊勢神宮でも、本宮は感謝の気持ちを伝える所であって、願い事は別宮でしなければなりません。

 神様に感謝できるという事は、「神様の意図を感じ取れる」という事なのではないでしょうか。ここから生きる希望と勇気を頂くのが正しい宗教だと、私は思っています。


** 高校生のコトバ **************************

名言 : 何か悪いことをした時に限って、母の足音が聞こえてくる。(excel)

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kiyokiyo

サボテンさん
こんばんは!
今日も暑かったですね~
今日もまた考えさせられる記事、ありがとうございます。
確かにサボテンさんの仰る通りなのでしょうね。
振り返ってみると、僕は困ったことがあると、神様や仏様にお願い事ばかりしてきました。
数年前に妻が大病を患い、大手術をしてから当たり前だと思っている日常に感謝が出来るようになりました。
あっ!そういえば未だにお願い事をしてましたっけ^^
by kiyokiyo (2020-08-13 23:54) 

サボテン

kiyokiyo様、
 自分の力ではいかんともしがたいどん底まで落ちた時、私達はそこに降りてきた一筋の「蜘蛛の糸」の存在に気づくのだと思います。それもその時ではなく、時間が経って振り返った時にです。これは、一酸化炭素中毒に始まって何回かそんなどん底を見た私の実感です。人それぞれにどん底のレベルは違っていても、「当人にとって最悪」という次元は誰もが同じはずです。したがって、この感覚は経験した人には分かってもらえても、分からない人には永遠に分かってもらえないだろうと感じています。奥様の大病という限界状況を体験したkiyokiyo様には、理解して頂けるのではないでしょうか。こんな「気づき」の繰り返しが、私達を成長させてくれるのでしょうね。
 コメントありがとうございました。
by サボテン (2020-08-14 14:23) 

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