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388. かしら [宗教的感覚]

川柳 :自習時間 毎日あれば いいのにな  (バルカン)

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かしら
 終業式の中で、 聖書の一節が読み上げられました。

 「あなた方の間でかしらになりたいと思う者は僕 (しもべ) とならねばならない。」 (マタイ20-27)

 サラリと聞けば、 「リーダーになりたければ、 他者への奉仕活動を率先して行わなければならない」 という人生訓にもとれますが、 その時の私はそうではないと感じました。 聖書が、 リーダーになるテクニックを説くはずはないと思ったからです。 むしろここでのかしらとは 「理想の生き方」を、 僕とは 「他者のための死」 を意味しているのではないか、 と。 そもそも 「リーダーになりたければ」 といった不純な動機で行った奉仕活動自体、 すでに奉仕ではありません。

 すると前回の脳腫瘍の彼女が、 また思い浮かびました。 短い人生の中で人々に多くの感動と気づきを与えて死んでいった彼女。 彼女は多くの人がモデルとしたくなるような 「神との関係」 の中に生き、 安心と感謝の中に死んでいきました。 キリスト教の 「かしら」 とは実は彼女のような 「神の僕」 の事なのではないでしょうか。


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