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1227. 愛と祈り [宗教的感覚]

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                        祈りの姿 「晩鐘」(ミレー)
               
 独学でギリシア語を学んで聖書を翻訳した、山浦玄嗣氏の「愛と祈り」についてのご講演を聴きました。以下はその奥深い内容の要約です。

 日本語の「愛」は、「好き」という自分では制御できない感情を表す言葉で、昔は目上の人には使えなかった。そんな場合は「慕う」を使った。しかしキリスト教の「愛」は「相手を大切にする」という利他的な行動を意味し、感情は問題にしない。だから、「神を愛せよ」や「汝の敵を愛せ」が成り立つ。

 また、日本人の「祈り」には、辞典に「神仏の力にすがって、良い事が起こるように願う」とあるように、利己的な姿勢が根底にある。これは神に専門分野がある多神教の日本だから言える事で、万物を造った神を崇拝する一神教の場合には、被造物側から創造主に注文をつける事は考えられない。ユダヤ人の祈りの基本は「シュマー、イスラエル」(イスラエル人よ聞け)であり、祈る事は「私は何をしたらいいでしょうか?」と尋ねる事なのである。

 では神の返事はどうやったら聞けるか?ヘブライ語に「ダーバール」(出来事、言葉)という単語があるが、ここに答がある。我々の身の回りに起こる「出来事」が、そのまま神の「言葉」なのである。

 キリスト教では、愛も祈りも「相手のために」行うべきものであり、私達は「出来事に潜む神の意図」を読み取る努力をしなければならないという事を学びました。

** 高校生のコトバ **************************

川柳 ; ただこねて 買ったものほど すぐ飽きる  (Dada)

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