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908. 坐禅 [宗教的感覚]

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                        永平寺の親子体験座禅会

 昨日の座禅会で、ご住職から次のようなお話がありました。曹洞宗の開祖道元禅師は、「修証一等」と言って「坐禅の修行と悟りは一つ」とおっしゃっています。私達は「悟るために修行する」と考えて座禅に臨みますが、道元禅師は「その考え方を捨てよ」とおっしゃるのです、と。その時私は、「じゃ、何のために?」と考えてしまいました。

 カントも、人々に好かれるために行う慈善活動は、動機が不純なので「善い行為」とは言えないと言っています。何かの目的のための手段となってる行為は、道徳的ではないと言うのです。恋愛も、結婚するためにするのではなく、それ自体が楽しいからしてしまうものです。こう考えると、坐禅も「悟るためにするのではない」という所は、何となく分かるような気がしました。

 ふと感じました。67歳まで日常生活に不便を感じない体力を頂戴している私は、日々有難く授業をさせて頂いています。せずにはいられない、というのが本音です。この感謝の気持ちは、義務感で感じているのでもなく、感じたくて感じているのでもなく、意思とは無関係に湧き起こってくるものです。もしかしたら座禅もこれと同じように、「せずにはいられない」という感覚に近いのかな、とも感じました。学ぶほどに自分の無知を感じています。

** 高校生の言葉 **************************

川柳 : 自己採点 何度やっても 変化無し   (いちごみるく)

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