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1579. 放蕩息子のたとえ話 [宗教的感覚]

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                        レンブラントの放蕩息子の絵

 イエスの語る「放蕩息子のたとえ話」が何を言おうとしているのか、今倫理の授業で取り上げています。要約文を文末に置いたので読んでみて下さい。

 この話では,父は神,兄は律法を守る者,弟は自分の罪を自覚し悔い改めた者を表わしています。さんざん放蕩の限りを尽くし自分の分の財産を使い果たして戻ってきた弟に対して、父は出迎えて祝宴を開きました。それを知った兄は、真面目に父に仕えてきた自分は何もしてもらえなかったと怒りました。

 この話、教科書的には、「神は心から悔い改めた者を救う」となるのですが、難しいのは「心から悔い改めた者」とはどんな人かの説明です。私はこれを、「それまでの生き方が自分の歩むべき本来の生き方ではなかった事に気づき、大きな自己嫌悪に陥っている人」と捉えます。しかしこれを、まだそんなに誤った人生を歩んでいるとは思えない高校生に実感させるのは、なかなか難しい事です。

 むしろキリスト教の立場から言えば、この話のポイントは次の三つではないでしょうか。
①自己嫌悪に陥った時こそ、神の声を聴くチャンス。(弟から)
②神と毎日一緒にいる事に気づく事が幸せの源泉。(兄から)
③神は、罪人にも真面目な人にも自分から近づいてきて下さる。(父から)
 私もついついこのお兄ちゃんのような気持ちになりがちです。気をつけねば。

放蕩息子のたとえ話(要約) (ルカ福音書15-11-32)
 ある人が二人の息子に財産を分与したところ,弟は旅に出て放蕩のあげくに財産を使い果たした。困窮した彼は「私は天に対しても,お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にして下さい」と言おうと思って父の所に戻った。すると父は遠くから走り寄って来て喜んで彼を迎え、祝宴を始めた。真面目に父に仕えていた兄はそれを知って怒った。父は出てきて兄をなだめ、「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。弟はいなくなっていたのにみつかった。喜ぶのは当たり前ではないか。」と諭した。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 蚊に言いたい。血なら吸わせる、かゆくするな (A)

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