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739. 自由意思 [宗教的感覚]

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            イエスとユダ (ジョット作『キリストの捕縛』)

 「神の前で、人間には自由意思が存在するか?」という難問があります。

 昔の私は、全てお見通しの神の前では「無い」と思っていました。しかし最近は「有る」と感じています。なぜなら、(大変傲慢に聞こえると思いますが)私自身が神の一部ではないかと感じるからです。ただし私の言う神とは、調和をめざして万物に働きかけている「法則」です。

 善悪どちらを選んでも、私はその「法則」を具現化する事になります。善い事をすれば、それが原因となって喜ばしい状況が現れ、悪い事をすればそれが原因となって困った状況が現れます。そしてそれは、そのまま多くの人々への生き方のモデルになります。イエスとユダが同時に存在したように、世の中には良いモデルも悪いモデルも両方存在し、私はどちらの人生も自由に選べます。

 今の私にとっての大きな悪は「原子力発電」とそれに依存し切っている私自身の「快楽志向」です。この二大悪とどう戦うか、残された時間はあまり多くありませんが、良心の声に従って善の道を進んでいきます。私の理想の生き方は、マザーテレサのような清貧の生活です。

** 高校生のコトバ **************************

名言 : 死ぬ事以外かすり傷。      (HOORIN)


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