京都大学哲学科教授 西田幾多郎氏

 道元禅師は、坐禅とは「精神を鍛えるため」といった目的達成のための手段ではない、と説いています。したがって「悟りを得るため」に坐禅をするというのは、そもそも間違っているそうです。凡夫の私は、それなら座る事の中に「何か楽しさを見つけよう」という気持ちで、昨日の坐禅会は座ってみました。

 最初に感じたのはミンミンというミンミンゼミの声。かすかにヒグラシゼミ。道路を走るトラック。突然降ってきたパラパラという雨音。びっくりしたかのように静まる蝉達。聴覚だけでもこれだけ楽しめると気づきました。

 目は半眼ですが、目の前の板の節目しか見えないので、他の感覚が鋭くなっています。お線香の香りとかすかな雨上がりの匂い、流れ込む涼しい風。坐骨と両膝の作る三角形の重心上で、骨盤と背骨が微妙に動きながら調整をとる感覚。内部感覚をこんなにじっくり味わう事は、日常ありえません。これが坐禅の奥深さか、と気づいたのです。

 ところが終了後に和尚様から学んだ呼吸のお話はさらに深いものでした。呼吸は横隔膜の上下に伴う全身の緊張と弛緩の二層の感覚を生みますが、個々の呼吸は様々な条件によって絶えず微妙に変化しています。「同じ息とは二度と会えない」とおっしゃいます。それを楽しんだのが西田幾多郎氏でした。こんな微妙な境地を楽しめたら、人生楽しい事ばかりでしょうね。

** 高校生のコトバ *************************

名言 : 一瞬の歓び、それもまた幸せである。  (健己)